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ゲイバーアンビシャスへの再来前日譚13
かすかな冷笑に似た奇妙な笑みが、高橋の唇の端に浮かんだ。
それまでの縁を断つように、扉に触れている躰をさっさと起こし、階段を踏み外さないように下界に降り立つための階段をゆっくりと下っていく。コンクリートに反響する靴音が規則的な時計の秒針のように聞こえるせいで、酔いが次第に醒めていった。
古ビルの外に出ても、頭の中にさきほどまでの靴音が鳴り響く。
元恋人が作った美味い酒を飲みながら、懐かしいやり取りの中から青年の身の上を知ることができて、高橋としては楽しいひとときを過ごすことができた。それなのに耳について離れない靴音が明日から再び繰り返される、地獄の生活のカウントダウンのように感じずにはいられない。
「くそっ。現実なんて上手くいかないのが分かってるのに、素直に従わざるおえない自分がいるなんて……」
舌打ちをしながら、すれ違う人がまばらの駅までの道すがらをだらだら歩く。
どんなに時間をかけて歩いても、終電までには余裕で間に合うことが分かっている上に、ここから離れたくない気持ちが、高橋の足を更に重くさせた。
(はるくんは今頃この町で、何をしているのかな。誰かと一緒に飲んでいたり、あるいは恋人と一緒に過ごしているか――)
不意に目に入った、駅まであと150mの看板が重い足どりをぴたりと止める。
「はるくん……」
鼻の奥がつんとした瞬間に、舌の上にレモンの苦みがなぜだか蘇ってきた。
「こんなところで何をしているんですか、高橋さん」
唐突に背後からかけられた聞き覚えのある低い声で、反射的に高橋の眉間に皺が寄った。
今日出逢ったその人物は、高橋が支店から出るときまで離れずにまとわりつき、最後まで自分の立場を何とかしろと、しつこく食いついてきた社員だった。
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