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第9話 『見えない獣の牙』①

 僕は水上龍一郎。職業は物書き。  このマンションで一人暮らしを始めてからどのくらいになるんだっけ。最初は住み込みのアルバイトをしていて、ここへは物書きとして安定した収入がもらえるようになってから越してきたから、まだ一年と少しくらいか。  事故物件だったこの部屋は、駅からも近いし最上階で見晴らしもいいんだけど、ありがたいことに驚きの格安。不動産屋さんも内覧の時に怖がってびくびくしてたけど、僕って霊感があるわりに怖い目にはほとんど遭ってないんだよね。    そうだな。今日は見えない獣の牙の話をしよう。これを話さないことには、僕の事情がわからないだろうから。  昔から僕には守り神がついてるんだ。  その神様はちゃんと見守ってるよと知らせるように、僕の手元に時々白い牙を置いていく。僕は施設にいた頃からずっとそう信じていた。  大人になってからは暫く途絶えていたんだけど、あることを切っ掛けに、牙じゃなく本体の方が僕のところへやってきた。  その切っ掛けはやっぱり、例の白蛇だった。 「あの、……やめてください」  これじゃまるで電車の中で痴漢に遭った女子高生だと僕は思った。けれど、他に適当な言葉が思い浮かばない。 「やめてください!」  言葉に力を込めて強く言うと、コンビニの店員さんが雷に打たれたみたいにびくっと震えて僕の手を放した。夢から覚めたような顔で、僕の手を握っていた自分の手を呆然と見つめてる。何が起こったのか自分でも分かってないんだな。そりゃそうだろう。うちの蛇の躾が悪くて申し訳ない。  僕は後ろめたく思いながら会計を済ませると、コンビニを出て自宅のマンションに戻った。  管理人さんに会釈をして右側のエレベーターに乗り込むと、やっと一人になれたという実感が持てる。ホッと安堵のため息をひとつ。  ああ、近頃人と接するのが煩わしくてならない。それというのも、これというのも、この居候の蛇のせいだ……。 「いい加減、手当たり次第に術をかけるのはやめろって」  僕の言葉に、腹の底のほうから不満そうな声が上がった。 『……あれとは相性が良かったというに、何が気に入らぬ』 「はぁ? 気に入らないに決まってるだろう!」  腹の中の相手に、僕は小声で文句を言った。  押し掛け女房みたいな蛇神を仕方なしに居候させてもう半月。この蛇神は元はといえば由緒ある神社に祀られた二体一対のご神体だったそうだ。それが五百年くらい前に片割れと引き離されて売り飛ばされ、最終的には御木本先生のご先祖様のところに落ち着いたらしい。以来、霊体としての存在を保つため、一族の当主から霊力を分けてもらう代わりに見返りを供してきたらしいんだけど……。  残念ながら、御木本先生はそれを気味悪がって、僕に押し付けたというわけ。  嫌々始まった奇妙な同居生活だけど、僕にも十分な見返りはあった。子供の頃から悪かった目がものすごくよく見えるようになったし、なんか体もすごく元気。それにこの間出た新刊が今頃になってバカスカ売れてる。僕の手元にお金になって入ってくるのはまだだいぶ先の話だけど、ありがたい事には違いない。  その代わり、奴は事あるごとに周りの人間を惑わして僕を襲わせようとする。  このいやらしい神様はセックスで高まった時の霊力を食べたいと言って、僕に四六時中エロい罠を仕掛けてくるんだ。力を蓄えて、引き離された片割れの神様を探したいってさ。  おかげで近頃は外に出るたびに誰かに追いかけられたり、痴漢まがいのお触りをされたりばかりしてて、ちょっと外出恐怖症になりそうなくらい。  何とかして僕にエロいことをさせようとしているみたいだけど、僕はもともと誰かと深く付き合うつもりがない。よって、蛇神の誘いは迷いもなく蹴りっぱなしだ。 「諦めて別の体を依り代にすればいいのに」 『お前ほどの霊力の持ち主が居ればな』  蛇神はそう言うけど、僕の霊力なんて全然大したことないんだ。お祓いができるわけでもないし、ただほんのちょっと人に見えないものが見えたり、気配を感じたりできるだけのものなんだ。こんなの、そこらにいくらだっているだろう。  そう言えば、蛇神はやれやれと雄弁なため息を吐いた。 『己を知らぬとは、厄介なことよ』 「……お前にはもう少し常識ってものを知ってもらいたいね」  蛇と小声で言い争っていると、突然電気が消えてエレベーターが止まった。ああ、まただ。押したはずの最上階のボタンの光が消えている。何日かに一回はこうなるんだよな。  実のところ、この右側のエレベーターを使うのはマンションの住人の中で僕だけだ。  なぜって、僕の部屋の前の住人は今僕が住む部屋で殺されたんだ。しかもその犯人がこのエレベーターの中で自殺したらしい。  最上階のボタンは血糊めいた汚れがついていて、これが恨みでも籠ってるみたいにどうやっても取れないんだって。そのせいでこっちのエレベーターは怖がって誰も使わないから僕専用みたいになってる。  もう一基ある左側のエレベーターは誰かが最上階のボタンを壊してしまったから、担当さんたちはいつも一つ下の階までエレベーターで上がって、そこからは階段を上ってくるらしい。管理会社も直してくれればいいのに、不景気だからかな。  でも、最上階のフロアに今も確実に住んでるのは僕一人っぽかった。部屋の両隣は僕が越してきたときにはもう空き家だったし、他の部屋もあんまり住んでる気配がない。まだ新しいマンションなのにもったいない話。  もっとも、最近蛇神のせいで独り言の増えた僕にはありがたい。 「う・ご・け」  僕は黒っぽい汚れのついた最上階のボタンをぐいぐいと強く押した。天井の灯りが頼りないライトをチカチカと点滅させた後、エレベーターは恨みがましい唸りを上げながらも再び動きだした。  よしよし、今日も聞き分け良いな、えらいぞ。腹の中の白蛇よりよっぽど扱いやすい。    人気のない暗い廊下を歩いて、自分の部屋の中に入った途端、蛇神の奴が待ち構えていたようにぞろりと動いた。 『……常識とやらに則るならば、棲家での営みは構わぬはずだな』 「うぁっ!」  蛇神が動く感触に、僕は呻き声をあげて床に膝をつき、股間を押さえてうずくまった。  お尻の奥を、内側からぎちぎちと蛇に押し広げられる。尊大な響きを持つ声が重々しく宣言した。 『腹が減った。ここから湧き出る霊力を貰わねば』

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