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43*雪美眞白と桜川原胡春*
カコン、と鹿威しが気持ちよい音を鳴らす。
桜が咲いている美しい庭を眺めながら、眞白は嘆息を漏らした。
「あら、失礼じゃなくって、人の顔を見て溜め息だなんて」
机を挟んで向かいに座るのはお嬢様と言って想像するお嬢様らしい女の子だ。桜川原胡春 ――財閥界の頂点に立つ大財閥のお嬢様、眞白の婚約者である。
甘い砂糖を溶かしたミルクティー色の髪。意志の強さを表したツンと跳ね上がった目尻。健康的な肌色で、下手をしたら眞白のほうが色白だろう。色鮮やかな和服よりも、オレンジや赤といった暖色系のドレスが似合う美少女。
生気に満ち溢れており、きっと長生きするんだろうなぁと思える少女だ。
「貴方が余りに可愛らしくて感嘆の息が漏れてしまったんだよ」
「あたしよりも美少女顔の男の子に言われたって嬉しくないわ」
ツン、とそっぽを向いた横顔は計算されつくした芸術品のようだ。気まぐれな猫みたいでもある。
今日は、卒業式だ。
薄手の黒いタートルネックにネイビーのジャケットに袖を通した眞白の胸には、卒業生の証でもある白い造花が飾られている。学園の講堂では卒業式が厳かに執り行われているだろう。
「……眞白さん、会わない間に随分腑抜けたお顔になりましたわね」
「腑抜けたって、酷い言いようだ」
「腑抜けているものを腑抜けと言って何が悪いのかしら。前回のほうがよっぽどいい顔をしていらっしゃいましたわよ。触れるものみぃんな傷つける、みたいな、ギスギス尖った雰囲気をまとっていらしたもの」
ぐ、と言葉に詰まる。
包み隠さないお嬢様は、爛爛と輝く瞳を細めて眞白を射抜く。「つまらないわ」と言ってのけた。
前回――一年と半年前の顔合わせ以来の逢瀬だ。二度目の逢瀬にしては、お互いに素を見せているのがとても不思議である。
この一年で、過激さは薄れ、苛烈な性格はだいぶ丸く大人しくなった。新入生や外部生はそれまでの過激で苛烈な雪美眞白を知らないものだから、見た目に騙されて親衛隊に入隊する生徒が続出したらしい。
以前を棘のある薔薇と例えるなら、いまの眞白は淑やかに咲く百合のようだ。
「胡春さんは、恋をしたことがある?」
ぽつり、と自分の意志とは関係なく口から零れ落ちていた。
「あるわ」
「……えっ」
「なによその顔。あたしだって恋くらいするわ」
口を尖らせた彼女は、白い頬を薄紅に染めて、寝物語のように言葉を紡ぐ。
「学校の先生よ。背が高くて、しわくちゃなワイシャツを着てて、国語の先生なのに白衣を着ていたわ」
ワントーン声が低くなって、懐古に浸っているのだろう。
キツくつりあがっていた目尻は下がり、穏やかな表情だ。
「ぼさぼさの頭なんだけど、櫛で梳いてあげるととってもさらさらなの」
「恋人同士になったの?」
「……秘密の、関係だったわ。あたしと、先生だけの秘密の関係よ。女学院だったから、噂が広まるのはすぐだったわ。好きだったの。初恋はレモンの味って言うけど、煙草のにがぁい味だったわ」
ぎゅ、と膝の上で拳を握った。白くなるほど強く握られた拳に、彼女は何を想っているのだろう。
大財閥のお嬢様が教師と禁断の恋なんて、噂になればすぐに広まるだろう。
「先生ね、幼馴染の女の人と結婚していたの。奥さん、妊娠していたのよ」
「……それは、」
「慰めなんていらないわ。いいえ、眞白さんが慰めなんてするわけないわよね。甘い蜜に騙されたあたしが悪いの。何度もやめようとしたわ。けれど、できないの。不倫をする先生が悪いの。もちろん、お父さんが圧力をかけて先生は職を追われたわ。噂をもみ消した」
似たもの同士なんだ。
叶うはずのない恋。震える声。ひと匙の蜜は、一時の幸せだった。
「幸せなんて、ほんの一時だけなのよ」
手が触れ合う。頬を寄せ合う。朝食を一緒に過ごす。何気ない会話で笑い合う。
眞白の幸せは短かった。朔太郎が卒業してしまうまでの半年。朝を起きたら朔太郎がいて、夜はたくましい腕に抱きかかえられて眠る。たったそれだけで、眞白の幸せの器は満たされた。
この一年間、朔太郎のせいで寒い思いばっかりした。朝起きて彼がいない。夜眠るとき、ベッドが広い。ふとした瞬間、朔太郎の影を探してしまう。たった半年だったけれど、眞白の中に深く根付いてしまった。
「恋をしているのね」
「わかる?」
「可愛らしい顔をしているもの。でも、叶わない恋」
「僕は君と結婚をしなければいけないからね」
「――あたしの夢を聞いてくださる?」
疑問符をつけながら、拒否は許さないと言う胡春に溜め息を吐く。
「好きな人と恋愛結婚して、子供は二人、女の子と男の子が欲しいわ。洋風な一戸建てに、ガーデニングをしながら毎日を過ごすの」
「恋愛結婚の時点で頓挫してるけど」
「そんなの、言われなくたって分かっているわ。貴方と結婚したら、あたしは夢を叶えることができなくなってしまうのよ」
だから、と言葉を切った胡春をまっすぐに見つめる。
縁側から差し込む光が、蒼い瞳に反射してキラキラと輝いた。一度目の顔合わせの時よりも幼さが抜けて、達観した顔 を帯びている。
女の子なら誰もが憧れる、アンティークドールのような美しさに目眩を覚えた。きっと、子供の頃も天使のように可愛かったに違いない。
「あたしの遠い親戚にね、少しばかりガラの悪い人たちがいらっしゃるの」
「は、ぁ……?」
「年に一度、見栄っ張りなお父さんが開くお食事会に次期当主さんがいらっしゃってね、開口一番になんて仰ったかわかる?」
「……綺麗だね、とか?」
首を捻った眞白に、彼女はにっこりと笑みを深めて声を大きくした。
「”眞白のほうが綺麗だな”ですって!」
ぽかん、と間抜け面を晒してしまう。
「あたしの気持ちがわかるかしら!? 初対面の、結構なイケメンの親戚に、婚約者と比べられたのよ! あの時の屈辱ったらないわ!」
いたたまれない。僕は勝手に比べられていただけだし、どうすることもできない。しいて言うなら、その親戚はどこのどいつだろうかと気になるくらいだ。
「ふふっ、ふふふっ……」
顔を俯けて妖しげに笑う婚約者殿。人のことは言えないが、本当に彼女と結婚しなければいけないのだろうか。気分の落差が激しすぎてしんどい。ついていけるかな、僕。
婚約者との結婚後のイメージがまったく思い浮かばないのは深刻な問題だ。
「だからあたし、思いましたわ」
恐る恐る「何を?」と尋ねた。
「結婚するなら、もっと平凡で穏やかな男性としたいわぁ」
「それ、僕に言う? 僕だって、」
続きは口にできなかった。
背後から抱きすくめられて、大きな手のひらが口元を覆う。
「僕だって、なんだ?」
低い声だ。よく耳に馴染む、懐かしい声。忘れられない、甘い香水のにおい。
「さ、くたろう」
目を瞬かせて、その人を見た。
前に見たときよりも髪が伸びている。眩い金髪だったはずなのに、なんとなく色が抜けて白に近づいているように見えた。
細めた瞳は、弱者を捕食する獣みたいでゾクリと背筋が震えた。
どうして朔太郎がここに、と疑問を抱いて婚約者殿を見れば、なぜかドヤ顔で親指を立てられた。
「迎えに行くって、言っただろぉ? 薄情な眞白ちゃんは俺のこと忘れちまったのかぁ?」
「ば、馬鹿じゃないの、忘れるわけないじゃんッ、ていうか、なんで、朔太郎がここに、」
「言ったわよ、あたしは。ガラのわるーい、遠い親戚がいるって」
朔太郎と、胡春が親戚? ぎょっとして、二人の顔を交互に見た。似て、なくはないか? いや、似ていない。
聞けば、朔太郎の父の妹の夫の兄の娘の夫の姉の娘が胡春だとか。ほぼほぼ他人じゃないか!
「というわけで、あたしは先に帰るわ」
「はぁ!? ちょ、っと、あの人たちにはなんて説明すれば……!」
ぎゅ、と抱きしめられる力が強くなる。嬉しいのと、苦しいのと、混乱が同時に起こっている。どれから処理していけばいいのか、ここ最近考えることを放棄していた眞白は言葉に詰まった。
朔太郎の甘い香りが鼻腔をつついて、思考をさらに鈍らせる。
抱きつきたい、キスをしたい、けれど胡春の前だから、と我満しなければいけないのもまた辛かった。
「また、縁があったら会いましょうね、眞白さん」
本当に帰ってしまった。ス、と襖が閉められて、ふたりきりになる。
「俺が来ないと思った?」
彼女がいたときとは違う声色に、肩が震える。蜜事を紡ぐような、甘く、とろける音に頬がカァッと赤くなる。
来ないと思っていた。問いに答えることができず、俯いてしまう。
婚約者同士の逢瀬の場に乱入してくるなんて、まさか思うはずがないじゃないか。
学園を卒業した朔太郎は家の仕事で忙しく、月に一度電話が出来たら良かった。もちろん、デートなんてそうそうできるはずも無く、この一年間でデートをしたのはたった二回だけ。
「遅くなって悪い」
ほっそりとしたうなじに口付けられる。
「迎えに来たよ、眞白。一緒に行こう」
差し出された手を、取らないはずがなかった。
胡春のことも、家のことも、朔太郎が迎えに来てくれたことで全部どうでもよくなった。
約束どおり迎えに来てくれた。視界が滲んで、目尻から一筋の涙が零れた。
「遅いんだよ、馬鹿っ」
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