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抱きしめられた瞬間に鼻腔を掠めた石鹸の香りに心が落ち着いて、全てがどうでも良くなった。
『遅くなってごめんね、白ちゃん』
――ゆるりと頬を撫でた神原が、はじめて出会ったときと重なった。
食堂の二階席へ向かう階段を手を引かれながら歩いている。遠く近い過去を思い出していた紅葉の瞳に神原が映る。
「神原さんは、なんで僕を助けてくれるの?」
「なんでって――」
逡巡してと首を傾げた。
注文をしに行ってしまった神原に、行き場を失い宙をさまよう手を見つめた。
ずっと握りしめられていた手には熱が残り、そういえば誰かと手を繋ぐなんて久しぶりだと思い出した。
――なんで、優しいんだろう?
出会った時からどこまでも優しかった。どこまでも親切で、優しくて、兄のような存在だった。
すぐそばにある優しさはむず痒く、ドクドクと心臓が波打って、感じたことのない感情に居心地の悪さを感じた。
どうしたらいいのかわからない。神原が優しくしてくれるたびに、胸のうちに広がる暖かくて心地いい思いを。
「深刻そうな顔だ」
いつの間にか戻ってきていた神原に目を丸くして、苦笑を浮かべて取り繕う。
「あ……いや、別に」
「別にって顔じゃないな。苦しくて苦しくて仕方ない、そんな顔だよ。昼飯、すぐにくるってさ」
「そ、ですかぁ」
へにゃっ、とごまかすように笑えば同じようにへにゃっと笑う神原。
紅葉の笑みとも、裏があるとも違う。気の抜ける笑顔に、身構えていた紅葉は毒気を抜かれて小さく息を零した。
何を考えているかわからない。なにがしたいのかもわからない。
神原風璃という人は酷く優しく、そして不気味で、その側は心地よかった。
「ご飯それで足りるの?」
「足りますよぉ。ちょっと多いくらい?」
「うっそだぁ。白ちゃんはもっと肉食べて太らないと」
「なにそれぇ。僕ってば脱いだら実はマッチョなんですよぉ」
「白ちゃんはがりっがりでしょ」
よく、見ている人だ。
季節関係なく年がら年中ワイシャツにカーディガンの紅葉は一見しっかりしたガタイにも見えるが、中に着込んでいるからであって脱いでみれば細くてぺらい痩せ型である。
昼食を食べながら、ふと、思い出したように神原は顔を上げた。
「白ちゃんの出身ってどこ?」
「京都ですよぉ。言ってませんでしたっけ?」
「聞いてないなあ。たまーに、イントネーションおかしかったから関西圏なんだろうなっては思ってたけど」
「……気をつけてたんだけどなぁ」
「で、なんで方言で喋んないの?」
「――僕が京言葉使っとると、ムラムラするんやってさ。どーお?」
目を眇め、わざとらしく赤い舌先で唇をなぞる紅葉は酷く艶やかでドキリと胸が鳴った。
紅潮した頬を隠すように水の入ったコップに口をつけた神原はここが二階席がよかったと息をついて、心底安堵する。
「神原さん?」
不思議に首を傾げる紅葉はわかっているのかわかっていないのか、柔らかい笑顔を浮かべるだけだ。
「……ほら、さっさと食べなきゃ昼休憩終わっちゃうよ。あんまり箸が進んでないみたいだけど?」
「あ、あー、あはは、はは、実はもうおなかいっぱい……。神原さん、食べ終わった?」
残ったのどうしよう、と視線を戻せば、器を引き寄せる神原。苦笑いで「食べちゃうよ」と言う。
「食べてくれるんですか?」
「うん。紅葉君ったらほんとにお腹いっぱいっぽいし。無理させるのもね。でも食べる量少なすぎだから、これからは俺と一緒に増やしていこ?」
「え? てか名前……」
「嫌だった? 俺のことも名前呼びにしてもらいたいんだけど」
「別に、嫌じゃないですけどぉ……」
予想だにもしていなかった展開に睫毛を瞬かせながら聞き返した。
名前が嫌いだから名前呼びされたくないとか、名前で呼びたくないとか、そんな大層な理由があるわけでもなく、神原ならいいか、と思ってしまう自分がいる。――名前呼びしたことで特別な繋がりを持つことが嫌だった。
名前で呼んでしまうことで愛着が沸くし、『情』を持つことに抵抗があった。
「風璃 、先輩?」
「今更先輩ってのもあれだなぁ。いっそ呼び捨てとかどう?」
「無理! 僕、神原さんのファンに刺されちゃいますよぉ!」
「えー紅葉君なら大丈夫だって。ほら、名前呼びして?」
紅葉君、と形のいい唇が紡ぐ度に背筋が震える感覚がする。脊髄がむず痒く、なんとも言えない感情が胸の内に広がった。
まさか、そんなはずは、と自身に言い聞かせて飛び出しそうな言葉を無理やり飲み込み、その名前のつけることができない感情を胸のずっとずっと深いところにしまいこんで鍵をかけた。
「風璃……さん」
「ふむ、うん、妥協かな。風璃さんね。これから名前で呼ばなかったら罰ゲームだからね」
「罰ゲーム!? き、聞いてないですけど!」
「今言ったからネ」
「その、罰ゲームの内容は?」
「んー……その時のお楽しみ」
ウインクをした神原に唖然とした白乃瀬はしばらくその場から動けなかった。
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