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第30話

「ねぇ、刹那。子供の頃お祭りに行ってさ、刹那がすくった金魚欲しがってごめんね。赤くて綺麗だったのに、俺はすくえなかったから」  夜明けの空が白んで行く。  病院の屋上から下に見る町並みが息を吹き返すように動き出して、風が渡る。  夜明け前から俺は刹那を車椅子に乗せて屋上に来ていた。一日が始まれば刹那は転院させられて、俺のそばから居なくなる。だから……。  なのに、決められない覚悟に時間だけが過ぎてしまった。  車椅子に座ったままうつらと眠っている頬に朝日が当たって眩しそう。眠れるようにと、俺はシャツを脱いで背もたれから影を作ってやる。 「ゲームも刹那がやってるとすぐやりたがってごめんね、上手だったから俺にも出来るような気がしたんだ」  明け切った水色の空を見上げて、飛べ無い弱さに涙を堪えた。  一ヶ月前の刹那は別の場所からこの空を見て、何もかもを捨てたというのに俺には出来なくて、この差が二人の違いなのかも知れない。  どうしても……刹那を落とせない。例え本人が捨てた命でも。  けれど今しかない。今を逃したらこの先、どうやって刹那が幸せになるのか。 「ねぇ、刹那。俺たちずっと一緒に居たのに、なんで辛い事とか何も言ってくれなかったんだよ。小さい頃俺が刹那をバカにしてたから?謝るから、大好きだったんだよ、刹那しか居なかったんだよ」  言葉にしたら涙がこぼれて来て、俺は手の甲で拭う。 「大好きだったんだんだよ」  側に居たかった。  実の兄を好きだと気付かなければ良かった。こんな思いは狂ってる。 「もう、疲れたねぇ……刹那」  呟いた声が風にさらわれて、刹那がくっきりした二重の目で眠そうにまばたきをした。  疲れちゃったね。  生きる事はもう疲れた。  刹那、ごめん。  涙はぽろぽろこぼれて、泣き顔の俺をぼんやりと見ている刹那が涙でキラキラ滲んで綺麗だ。  しばらくそうしていると、滝川さん?と後ろから控え目に声がかけられて、女性看護師がサンルームのドアからこちらを見ていた。 「お散歩ですか?朝食の時間ですよ。戻りましょうか」  きっと出発の段取りかがあって探していたのだろう。戻れば刹那を連れて行かれてしまう。だけどそれでいい。永遠に二人きりの世界は来ないから、もう終わり。 「さ、お兄さんの車椅子、私が押して行きますね」 「ねぇ、刹那」  最後にもう一目と前に回って顔を覗き込んで。 「今まで……ありがとう。ごめんなさい」  不出来な弟でごめんなさい。  迷惑ばかりかけてごめんなさい。  ここまで追い込んでごめんなさい。  車椅子を看護師に渡してしまえば、別れは呆気なく終わってしまって、後は連れて行かれる刹那を見えなくなるまで見送るだけだった。  そうして俺はフェンスの側まで歩く。涙で視界が歪んで、見えるのは元気だった頃の刹那ばかりだ。誰よりも格好良くて頭が良くて、何でも出来る自慢の兄貴だった。この人が俺の兄ちゃんなんだってみんなに見せびらかしたかった。  フェンスの前まで来た時に後ろから滝川くんと名前を呼ばれて、振り返るとさっきの看護師が居た。 「一緒に戻りましょうね」 「刹那は?」 「他の方に。あなたは私と一緒に戻りましょうね」  緊張した面持ちの看護師に、察しのいい人はどこにでもいるなと思った。首に下げているピッチで応援を呼んだのか、彼女の後ろのランドリールームにパラパラと白衣の男性が集まって来ている。  フェンスを登るまでの時間と彼らが駆け寄って来るのは、どちらが早いだろう。 「戻りますよ、すぐに。ちょっと……外の空気を吸っていただけです」  そう、と看護師がホッとした笑顔を見せた瞬間、俺はフェンスに飛び付いて駆け上がる。 「朔実っ!」  ガシャガシャと鉄の鳴る音と同時に、片足の足首を下から掴まれた。  その手をもう片方の足で蹴り離して、もう一度朔実と名前を叫ぶ声が聞こえた時には、もうフェンスの一番上まで来ていた。後は乗り越えるだけ。俺の頬を風邪が抜けて行く。 「朔実、降りて来い」  下を見れば蒼白な顔をした卯月さんが居た。 「誰も朔実から刹那さんを取らないよ。大丈夫だから、休みの日は一緒に面会に行こう」  そういう事じゃ無いんだ。  卯月さんは知っているくせに。知っててずっと見ていたくせに。  この想いには破滅しか無い。 「もう、疲れたんだ。未来が無い」 「未来なら有る。刹那さんは回復する」 「嘘だ」 「嘘じゃ無い。どうしてお前が信じないんだよ、ずっと側にいただろ、ずっと側で見てただろ」  卯月さんの周りに他の人達が様子を伺いながら集まって来て、誰もが緊張した顔で俺を見上げてる。どこかに隙を探す沢山の目を来たら飛び降りるとジェスチャーで制して、俺は卯月さんだけを見つめた。 「話を聞くから、朔実の話は全部聞くから。な?」  とても優しい人。出会えた事に感謝する。刹那を好きだと気付かずにいらたら、きっと卯月さんを好きになっていた。 「刹那さんはお前を探すよ。なんで側に居てやらないんだ。朔実の話は俺が聞く。辛い事も不安な事も全部俺が聞く、お前は一人じゃ無いから」 「卯月さんじゃダメなんだ」  俺は……刹那じゃなきゃダメなんだ。 「それも俺が全部引き受けてやる。無理矢理にでも変えてやる」  そう言われて俺は首を横に振った。 「もう……疲れちゃった。ごめんね」  その瞬間、下で卯月さんが一歩助走をつけてジャンプした。その手が俺の足首を掴んで、あっと思った時には身体が宙に舞う。  落ちる。  まるでスローモーションのように逆さになる視界の中で、水色の空が見えた。 「いっ……て」  ゴチンと骨を打つ音がして、屋上のコンクリートの上に身体が叩きつけられた。  フェンスの外側では無く内側に引きずり落とされたと理解した時には、バタバタと駆け寄って来た沢山の人に毛布にぐるぐる巻きにされて、訳が分からなくなった。  揉みくちゃだ、逃げ出そうとしても毛布に巻かれて身体が動かせない。沢山の人の足が見えて、俺を取り囲む幾つもの声に塞がれた全身を揺すって抵抗する。 「離せっ……解けこれっ!」  毛布でミノムシみたいにされると、身動きが取れなくなると初めて知って、無茶苦茶に暴れようとするのを押さえ込めと誰かが叫んだ声がした。 「離せっおらっ!俺はっ……」 「朔実、落ち着け」 「ストレッチャー持って来い、手が出せない」  誰かが叫ぶ声に感情が逆上する。  動かせない手足に余計に反発する。全身を揺すって毛布から抜け出そうとして。 「離せっ!」 「朔実っ」 「死なせろよっ!」  押さえるなと誰かが叫ぶ。  沢山の足と沢山の声と……。 「死なせろっ」 「朔実っ!」 「死なせろよっ……」  突き動かされる破滅の衝動に思い切り叫んだ声は、掠れて青い空に吸い込まれて消えただけだった。  何にもならない。  バカみたいだ。  何にもならない。  どんなに好きで憧れても、出来るか出来ないか。俺と刹那は決定的に違う。

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