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第29話
小学六年生の刹那の前から母親が消えた後、刹那は一緒に残された四歳下の弟を見る。
これまで甘やかされて好き放題に育った弟は泣いてばかりで、手がかかるだけの役立たずだ。
唯一の味方だった母がいなくなったのに、わがままな弟が横で泣き喚くせいで泣き言一つ許されない刹那は、どんな思いだったろう。
きっと、この頃から好かれてはいなかった。むしろ憎まれていたと思う。同じ兄弟なのに損な役回りばかりで、祖母に丸め込まれたバカな弟ばかりいい目を見て。憎たらしくて、大嫌いで。
刹那が冷静に家の中を見渡した時、自分たちの他にはそう長く無いだろう高齢の祖父が同じように家族に捨てられて、しかし孫二人をどうにか育てなければと考えていた。
そこで刹那は考える。
どうやったらこの家族に仕返しが出来るだろう。これまで受けて来た仕打ちを、どうしたら様を見ろと笑えるだろう。
金だ。祖母が亡くなった側から遺品を漁り、金目の物は無いかと血眼になって探す、そんな家族や親族にとって一番大切な物は親でも子でも無くて金。
祖母でこれなら、目の前で老いていく祖父が亡くなった時はいったいどうなるのだろう。
やがて戻らない父から生活費が振り込まれる。母が居なくなればいくらあの親父でもそうせざるを得ず、刹那は生活に必要な物を買い揃えながらきちんと収支を記載して父に見せ、一方で足りないと祖父に金を要求する。もう老眼で面倒な計算など嫌がる祖父は、家計簿など見はしない。残された不憫な子供達にせめて必要な物だけはと貯金を渡す。
最初の流れはきっとこんな物だったと想像する。
刹那はこの家族の何がおかしいのか見抜いて、腹いせの復讐に持ってる奴から尽きるまで騙し取る方法を実行した。
けれど祖父もそこまではボケていなかったはずで、刹那が何を考えているかすぐに気付いて、逆に自分が死んだ後に通帳を見られても不自然では無い額を刹那に渡し続けたのでは無いだろうか。毎月毎月遺産のかわりに渡し続けて、薄情者の子供達には一銭も渡さない。自分が死んだ後に無い物を探して奪い合う子供達の姿を望んだのはむしろ祖父の方で、それは皮肉に満ちたあの遺書が示している。
祖父は刹那が金をどう使おうが一切干渉はせず、黙って素知らぬ顔で渡し続ける。
刹那も刹那で、そんな祖父の意地を見抜いて、知らない顔で騙し合う。
もしも家に残されたのが光輝だったならば、こんな事にはならなかったはずだ。光輝は真っ当で、こんな歪んだ形には耐えられずに正論を打つ。俺では気が小さくて甘いので話にならない。これは頭のいい悪童、刹那でなければ出来ない事だった。
そうして持ち金が尽きた時、祖父は死んだ。預金の残高が命のカウントで、二人は互いに黙ったままそれを数えていたのだ。何年も何年も。
刹那が俺に話した祖父の死に方は嘘だ。あの晩、最初から刹那は祖父の部屋に居たはずだ。
そもそも、もう動くのもやっとの老体が死に方に切腹を選ぶのが不自然で、己すら一息で殺める力も無いのに、わざわざ苦しむ方法を選ぶだろうか。俺なら首を吊る。
決行する前日、祖父は不自由な身体を押して刹那と二人で新車の試乗に行った。俺たちに殺人の疑いがかからないよう、計画は綿密に打ち合わせられた事だろう。
そして刹那は葬式が終わった晩に早々と家を出て、俺と二人で暮らし始めた。
刹那が俺を連れて出たのがどうしてなのか分からない。一人で出た方がよっぽど身軽で新しい人生を始められたのに、なんで俺まで連れて行ったのだろう。
もう……祖父を殺した時に刹那は自分も終わりにしたのかも知れない。いや、もっと早く、祖母に死に水を与えた時から自分を諦めていたのかも知れない。
兄貴が刹那の事を、子供の頃から狂っていたと言っていた。
それでも……。
俺を置いて行かずに連れて行ってくれたんだよ。
家族のみんなが順番に出て行って、誰も俺を連れて行ってはくれなかったのに、刹那だけは見捨てずに最後まで側に置いてくれたんだよ。
何が悪かったのか、誰が悪かったのか、生まれた家か、生まれた順か、全てが寄ってたかってそんな刹那を殺したんだ。
静かにノックの音がして、ドアの方を振り返ると病室の開けられたままの入り口に私服の卯月さんが居た。
刹那の転院を明日に控えた、二人で過ごせる最後の晩。
「仕事終わり?」
「うん。朔実は今夜どうする?」
「付き添い申請してある」
「そっか」
こんばんはと刹那に挨拶をしながら俺の隣に来た卯月さんに、刹那は機嫌良さそうに少し首を傾げて見せる。卯月さんの事は好きみたいで、ちゃんと分かるから不思議だ。
「やっぱ似てるな、刹那さんと朔実」
でも中身は全然違ったみたいだ。
「卯月さん、ごめん」
そう言ったら、卯月さんは不思議そうに俺を見た。
「何が?」
一度は好きだと言ったけれど、気付いてしまった。刹那に向ける好きと卯月さんに向ける好きは違う。
ずっと好きな相手が出来なくて、誰とも付き合う事も無かったのは、刹那が居たから。俺はずっと、自分でも知らずに刹那を見ていた。
顔を背けて目を見られない俺に、卯月さんはゆっくりと微笑んで刹那に向き直った。
「ねぇ、刹那さん」
ベッドに投げ出されている刹那の手を握る。
「弟さんを、僕にくれませんか」
そのセリフに俺がビックリしたその後で、一呼吸置いて刹那が顔をしかめた。
「あー……ああーっ」
怒った。刹那が怒ってる。意思を持って言葉にならない声を張り上げ、不快感を露わに怒ってる。
「刹那」
俺は刹那を抱き締める。
「ここに居るよ、俺はここに居るよ」
「さく、さく、さく」
どこにも行けない。離れられるわけが無い。刹那の世界には俺しか居ない。今の刹那に俺は必要とされている。本当の刹那が俺を捨てて逝くつもりだったとしても、生き残った刹那には俺しかいない。
こうなった今、俺が必要なんだ。
「ごめん、興奮させた。明日からどうして朔実がいないのか探すよ。下さいって言って、いいよって言ってくれたら納得出来るかと思ったけど、甘かった」
そう、離れられないのに、明日から刹那がいない。
「朔実」
刹那を落ち着かせようと抱きしめる俺の背中に、卯月さんが手を添えた。
「兄弟だけは、報われない」
気付かれて……。
振り向く事は出来なかった。
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