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第28話

 二日後、親父が兄貴と時間を合わせて病院にやって来た。刹那の事はちらりと見ただけですぐに兄貴と一緒に談話室に行ってしまって、話が済んだ後、病室に戻って来たのは兄貴だけだった。 「親父は?」 「帰った。」  病室のパイプ椅子に深々と腰掛けた兄貴が、大きく息を吐く。 「ひとまず、繋がった」 「これで刹那も兄貴も俺も大丈夫で良かった。やっぱり頼りになるのは父さんだったね」」 「ああ、あの人は金を出すと言ったら出す。だけど回収もするぞ」  回収? 「民法に親族扶養義務ってのがあってな、最初から逃げられ無いんだよ。あの人にしてみりゃどこで手を打つかが問題で、商売柄表沙汰になりたく無いのは親父の方だ。何にしろ、あの人が狙うのは刹那に降りる障害年金っていう継続金庫だよ。気をつけろよ」  なんだそれは。  そんなの知らない。兄貴はそんな事言わなかったじゃないか。  親父は俺に、人の言う事ばかりが本当じゃないと、親だから助けるのは当たり前だと言ってくれた。ずっとずっと暗闇の中に居るような苦しさが救われた気がしたのに。 「……でも、父さんはちゃんと来てくれた」  約束通り病院に来てくれた事に嘘は無い。 「親父は、刹那を押し付けるならお前だと思ってる。俺からは一円も取れない。が、お前なら上手く騙せるから、学費の利子と称して後から何倍もふっかける気だ」  あぁ……。  そう言えば親父は金を払うのが嫌で兄貴から逃げていて、呼び出す口実に兄貴が俺の進学を使ったんだ。親父は先々になって、俺から取れると計算して来たって事か。  なんだ、両方に甘く見られていたのは、俺か。  こんなになっても金、金、金、金。  なんて家族だろう。もう、うんざりだ。  本当にもう、うんざりだ。  目の前にチラチラと白い粉が舞ったような気がした。  雪……。  まさか、今は夏の盛りで、室内に雪なんか。  まばゆい幻覚に瞬きを繰り返して、ベッドで眠っている刹那の白い顔を見る。  あぁ……そうか……。  うんざりしていたんだね。  どうして刹那が飛び降りたのか、今、分かった。  諦めは白い雪になって心の中に降り積もり、世界を白く埋めて行く。 「どうしたらいいの」 「朔実はやりたい事をやればいい。ただし親父には借りるな。奨学金とバイトと、後は俺が何とかする。お前が俺に懐いて無いのは分かってるけど、親父よりも俺を信用しろ」  けれど兄貴が描くのは、刹那をずっと病院に入院させて看護に母さんをつけて、みんな別々に生きて行く未来なんでしょう?  俺は、それだけは嫌なんだ。  刹那のそばに居たいんだ。 「……うん」  俺には勝てない。  兄貴も親父もずっと先の事を見越して攻防を繰り広げていて、こんな人達にどう頑張っても太刀打ち出来る頭が無い。俺では刹那を守れない。 「あの手の人種から見れば、血の繋がりなんか何の意味も無い。親でも子でも、貸した金は高金利の貸した金だ。下手な人情劇に騙されると骨までしゃぶられるぞ。あれと戦うには正攻法で、法律しか無いんだよ」  食うか食われるかは家族間だからそこ熾烈で、兄貴も親父も互いを信用せずによく相手を見ている。そして考えの甘い俺よりも、十歩も二十歩も先を行く。この二人の間でぼんやり人のいい事を言っていたら、負けるばかりなのだろう。  無理だ。  婆さんがよく罵っていた、ノロマで呑気で人より遅れている子いうのは俺の事だ。俺には出来るはずない。  もう、折れた。  やっぱりあの親父はそういう人で、俺が勝手に期待したんだ。救いの手を勝手に信じて、裏切られたと勝手に失望しても、あの人には痛みの一つにもならないだろう。  もう、とことん折れた。 「それから、あの一千万の事は絶対親父に言うな。刹那のためにいずれ必要なんだ」 「分かってる」 「それにしてもあの親父から一千万取った刹那もな。末恐ろしい子供だと思っていたけど、親父以上で、親父が欲しがったわけだ」 「……そうだね」  それは違う。  よくよく考えれば、あの金は親父の金じゃ無い。もっと熾烈で、もっと怨念のこもった金だ。  あぁ……。  雪が降る。  春を連れて来る大粒の牡丹雪がぼたぼたと降り積もり、辺りを真っ白に埋め尽くした、あの雪が。  刹那が自殺しようとした答えは、やっぱりあの金にあった。正確には金のせいでは無くて、金は目に見える形にすぎない。  病室の窓から見える空はもう外はすっかり暗くなっていて、兄貴は先に帰ると病室を出て行った。  俺は残された白い部屋で、白いベッドに眠る刹那を見る。  清潔な白の中に埋もれた刹那は美しい。  あの春の始まりの日に、全てを終わらせた少年の面影そのままに……。  兄貴は金の出処を親父だと言ったけど、違う。本当は爺さんだ。全ての答えは酷くシンプルで簡単な物だった。  これまで思い当たらなかったのは、刹那が俺の想像を超えてずっと悪知恵の回る子供だったせいだ。  十年以上も前、母さんが出て行った時に刹那は小学六年生だったか。その頃から既に計画は始まっていたのだから、同じ兄弟でも俺には到底無理で、本当の切れ者はここに居た。  悪童。  きっかけは両親の離婚よりも早く、あの粉雪が舞う晩に婆さんに死に水を与えた事だろう。その行為が直接死に関係する事かどうかは別として、刹那は殺そうという意志を明確に持っていたのだ。  俺は刹那に愛されていると思っていた。  刹那が俺を育てて、刹那が俺を連れて家を出たんだから、俺だけを離さなかった刹那に愛されてると思っていた。  刹那にとって俺は、一生味方であり続けるたった一人の弟という存在なのだから。  けれど本当は、俺の事など愛して居なかったのだ。  俺は愛されてなんかいなかった。  幼い頃の刹那に愛情は与えられず、逆に散々な仕打ちばかりだった。愛情自体を知らないのなら、知らない物は持ちようはずも無く。  刹那がいないと生きて行けない。  二人で一人。  同じ罪を背負ってと……妄信的に刹那を信じきっていたのは、俺だけだった。  今はベッドでうつらうつらと眠るばかりの刹那は、こうなる以前は徹底的に冷たい目をした人だった。  他人を騙す事に良心の呵責も無ければ、騙される方が間抜けだと言い切る最低な人物。けれどそんな刹那の人並み外れて美しい外見に怖い物見たさで吸い寄せられる人が後を絶たないのは、なんとなく気付いていた。  以前面会に来た会社の人が良い事を言わなかったのは当たり前で、刹那がこうなった事を人は罰が当たったと言うだろう。  笑える……それでも俺だけは、そんな人に愛されてると、信じていた。  今更気付いた。  俺はずっと刹那を愛してた。  刹那の毒に吸い寄せられた一番の間抜けは、俺だった。なんて……俺は絶対に叶う事の無い恋を、恋と気付かずにずっと……。  心の中に雪が降る。  全てを覆い隠す白は、全ての恥を隠して行く。  刹那の色だ。

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