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第27話

 約束通り部屋で待っていてくれた卯月さんは、俺を見るとほっとした笑みを浮かべた。 「帰り際の様子が気になったから。良かった、何事も無くて」 「親父に会いに行ってたんだ」  上がれよと誘われた部屋には、テーブルの上にコンビニ弁当と惣菜があった。プシュッと音を立てて卯月さんが缶の焼酎の蓋を引き抜く。 「弁当は朔実の。足りなかったら自分で作って。で、お父さんどうだった?」 「元気だった」  たったそれだけしか言わない俺を、卯月さんが缶の中身をグラスに移しながらチラリと見る。  横顔を向けたのは言いたく無いの合図で、心得ている人だからそれ以上は聞いて来ないと思う。親父の事は人には言えない。それにきっと卯月さんがしたいのはそんな話じゃなくて、もっと別の事。 「親父に会って一つ決めた事が有るんだ。専門学校に行こうと思う。学費の援助を頼むのは兄貴が親父を呼び出す口実だったけど、あっさり承諾して貰えて……俺、卯月さんと同じ仕事を目指そうと思う」  そう言うと、卯月さんは考えてもいなかったのか、同じ仕事?と目を丸くした。  刹那のために続く仕事をとアドバイスしてくれたのは卯月さんで、やりたい事の無い俺が一番やりたい事って考えると、刹那を治す事。専門家になって一生かけて治して行く事。 「あぁ、なるほどなぁ、いいかも知れない。朔実に向いてると思う。療法士も色々あって、刹那さんの今後を考えると言語聴覚士かな」  まずは資料集めだと、卯月さんがネットで幾つかの学校のパンフレットを申し込んでくれた。  将来を一つ決めた事。というか、それをわざわざ告げた事に意味が有るんだけど。  チラリと卯月さんを見ると気付いてはいないみたいで、機嫌良さそうにグラスの焼酎を飲んでいる。  自分の事は考えなくていいと言った卯月さんに、頭を占めている物が一つ減ったと言いたい。だから貴方の事を考えたいと。  だけど、どう言えば。俺はこの手の事に疎くて、今まで付き合った女の子一人居ない。バイトと家事でそんな暇が無かったせいも有るけど、不思議とこの年まで好きな相手も居なかった。 「あの、さっきの電話のあれ、俺に周りを見る余裕が出来た時、必ずしも卯月さんを選ばなくてもいいって言った、あれ」 「あー……あれは……。八割増しで見ても選べなかったらしょうが無い」 「八割増しかよ、せめて半分とか遠慮しろよ」 「んー、どうかなぁ……八割増しでも、負けるかな」  何に負けるんだろう。  卯月さんがいい。  俺は座布団の上で座り直して、両膝をかかえた。そうして抱えた膝に顔を押し付けて、小さく小さくなりたい。 好き。  狭い場所でスースー呼吸を整えて、たった一言を告げるのに、とても勇気が要る。緊張する。 「……卯月さんがいい」  声は蚊の鳴くような小さな物になってしまって、ちゃんと聞こえただろうか。  なんて答えてくれるだろう。喜んでくれたらいいけど、本気にされると迷惑だとかのパターンも有りそう。だって卯月さんは大人で、素敵な人で……やばい。早く返事くれないと心臓つぶれる。  ドキドキする。言わなきゃ良かったと思う程に、胸が絞られる。  反応が無い事に恐る恐る顔を上げると、テーブルの向こうで卯月さんが固まっていた。 「……聞こえた?」 「聞こえなかった。もう一回言って」  嘘だ。絶対聞こえてる。 「ごめん、やっぱ忘れて。」 「なんで」  もう一回と、テーブルを回り込んで来た卯月さんが俺の隣りにぴったり座る。そうして耳を口元に近付けて、もう一回言ってとねだって来る。 「や、ごめん。無理。聞かなかった事にして」  恥ずかしい。  告白ってこんなにヒヤヒヤしてドキドキして、言ったそばから取り消したくなるんだと初めて知った。顔が熱くてたまらなくて両手でパタパタ扇ぐのに、手のパタパタを避けて卯月さんが顔を寄せて来る。 「分かった、聞いて無い」  囁きながら頬に口を寄せて来る。 「待って、やっぱり聞こえてるじゃん。待ってって」  頬に唇が触れて、抱きしめられた。  死にそう。  いっぱいいっぱいだ。 「卯月さんっ」 「狡くてごめん」  ずるい?  心の中でひゃーひゃー叫びながらすぐそばに有る卯月さんの瞳を見ると、俺の瞳が映っている。  あっと思った時にはもう唇が触れて、すぐに離れた。  今……唇にキスした。  びっくりして見つめた至近距離に有る卯月さんの瞳に、俺の間抜け顔が映っている。なんて変な顔をしているんだろうと、自分で思った。  そんな俺に卯月さんはとても優しい微笑んでくれて、何故か俺には、その微笑みが悲しく見えた。 「あのな、朔実。刹那さんの転移先のベッドが空く」 「え?」 「週末、転院になるよ」  こんなに早く。 「だってまだ一ヶ月しかたって無い。怪我だって症状だって治って無いのに、もう」  刹那が居なくなる。  せり上がって来た急激な不安と焦りに、考えただけで俺は叫びたくなる。  動揺が伝わったのか、俺の身体に回っていた卯月さんな腕に力がこもって、ぎゅっと強く抱きしめらた。 「引き続きの治療は向こうでやる。大丈夫、向こうにも専門医が居るから心配無いよ」  俺のそばから刹那が居なくなって、違う病院に行く。今度は母さん診てくれて……分かっていた事だ。薦めて貰った専門病院は刹那の回復に役立つし、ずっと一生離れるわけじゃ無い。学校が休みの時には面会に行ける距離だし、いずれ刹那と生きて行くために今は離れても……。  嫌だ。刹那と離れたら俺は生きて行けない。俺一人で背負えと言うのか、二人で抱えた秘密を。 「朔実には俺が居るから大丈夫。進む学校を決めて、資格を取って、それから刹那さんの元に戻るんだ。分かるよな?」 「大丈夫。思ったより早かったから、ちょっとびっくりしただけ」  分かっている。刹那のために親父と会って、親父は快く援助を受けてくれて、そのおかげで俺は刹那と一緒に生きて行く将来を決められた。少し離れる事になるけれど、将来ずっとずっと一緒にいるためと分かってる。大丈夫、俺たちには未来があって、兄弟なんだから離れるはずが無いんだ。  分かってる。これが一番いい道。 「休みの日には二人で面会に行こう。俺もあの病院見てみたいし」  ずっとずっと、兄弟なんだから。 「朔実、好きだよ」  初めて言われた好きという言葉に驚いて、俺は卯月さんを見た。  そうだ、好きだ。  卯月さんはとてもいい人で、親身になってくれて、いつだって優しくて、こんなに優しい他人は知らない。

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