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第26話

 昼間のその街は、シャッターの下りた店舗が軒を連ねる荒んだ町並みをしていた。電柱の下にゴミが投げられて、角の交差点に革靴が片方落ちている。なんで片方なのか意味が分からない。  目指す店の看板は、今は明かりの消えた曲がった蛍光灯が店名を形取ったありきたりな印象で、それでも手をかけたドアが思いがけず重い。開いたドアから一歩中に入ると、鏡貼りの壁には不似合いな自分の姿が写ってびっくりした。  店内では中年女性が一人で掃除をしていた。胸元の大きく開いた派手な柄シャツから覗く肌が少し浅黒い。  彼女はいきなりやって来た俺に怪訝な目を向けたけど、すぐにこっちこっちと手招きしながら笑いかけてくれた。 「オトーサンのムスコさんね」  イントネーションが微妙。見た目では日本人と余り区別がつかないけど、微妙に浅黒い肌の色とイントネーションで外人だと分かった。この手の人は世話になってる日本人男性をオトーサンと呼ぶから、この場合のオトーサンは俺の親父の事だ。 「ジュース飲んで待ってて」  俺が黙っている間に彼女はグラスにオレンジジュースを注いでから、どこかに電話をかけている。  親父は相変わらず外国人女性を働かせているらしい。本職は闇金で、この店で客に金を使わせてから搾り取るのだろう。全く、自分の父親ながら関わりたく無い人種で、うんざりする。  しばらく待っていると白髪交じりの髪を後ろに撫で上げた、服装から何からごくごく普通のおじさんがやって来た。 「朔実か、でかくなったなぁ」  それが四年ぶりに見る親父だった。 「驚いた。何センチになったんだ」 「……百七十三」 「ああ、そりゃ父さん抜かされたわけだ。いやーでかくなった、デカくなった」  はははと声を上げて笑う、表面上は愛想のいい普通のおじさん。道ですれ違っても大概の人は気にも止めない至って平凡な親父。  けれど俺を上から下まで舐めるように見る目つきと、服越しに発っせられる気配が違う。自分が悪い事をしていると自覚の有る人ほど、堂々と普通を装う物だ。 「父さん、あのね」 「お前と刹那が居なくなって、随分探したんだ。だけど刹那がなぁ、見つけた時には二人でやってるから心配するなって言ってなぁ。まぁ座れってそれ飲め。外は熱かっただろ」  カウンター席の隣の椅子を、親父が引いた。 「うん。それで……」 「何回も見に行ったんだ、元気で居るか、困った事は無いか。だけど父さんを嫌って出て行ったんだから、来るなと言われりゃ顔も見せられないだろ」  嘘つき。  さっきデカくなったなと、四年間ぶりに見るセリフを言ったくせに。最初に調子のいい事を並べ立て相手の懐に入り、喋らせ無いのはこの手の人間の特徴。  それからも言い出そうとする話は全部親父に潰され、母がどんなに酷い女だったか悪口ばかりを聞かされた。  昔の話をほじくり返して自分がどれほど家族に尽くしたか、しかしそれが全部母に揉み消され、挙句あの女は子供を捨てて出て行った、可哀想なのはお前たちだと。母親という物は子供に必要で、せめて一番小さい朔実だけでも連れて行ってくれと頼み込んだのに、その時外に男が居たから捨てて行ったんだと親父はまくし立てた。  確かに親父が俺を連れて行くよう母に言っていたのは知ってる。そして借りたアパートにすぐ今の再婚相手が通うようになったのも事実だ。けれど今の俺にはそんな事はどうでもいい。昔話や不仲だった両親よりも、刹那だ。  親父が喋り疲れるまで喋らせて、それからようやく専門学校の話を切り出すと、親父はあっさり学費の支援を承諾した。 「えっ、いいの」 「当たり前だ。やりたい事をやれ、お前の将来だ」  あまりに呆気ない。切り出した俺の方がびっくりして、カウンターに並んで座った親父を穴が空くほど見つめてしまった。そんな視線を受けて、親父は頭を掻きながら照れ臭そうに笑う。 「朔実は一番小さかったからよく分からなかったかも知れないが、世の中いろんな見方と通りがあって、人の言う事ばかりが本当じゃ無いんだよ。父さんはこんな商売をしているからお前達の親だと名乗るのは申し訳ない気がしてなぁ。だけど、親なんだ。困ったら頼って来い」  それは……本当なんだろうか。  親父はずっと血も涙も無いような奴だと思っていたけど。 「本当は光輝から聞いた時、すぐにでも援助を申し出ようと思ったんだ。刹那だって光輝だって父さんの息子で、当たり前の事だろう。だけど渋れば朔実が訪ねてくれるかと思ってな。昔は色々重なったから朔実が父さんをどう思っているか不安で、これをきっかけにしたくてなぁ」 「うん。ありがとう。それで父さん、刹那の病院に一度……」 「ああ、病院にも明日辺り行ってみる。悪かったなぁ、苦労させたな。朔実が居て良かった。お前は一番優しい子だったからな」  清々しく、やっと分かり合えたと目尻のシワが深くなる。  嘘みたいだ。  何が本当で何が嘘なのか分からない。  俺がこれまで見て来た世界が嘘なんだろうか。世界はそんなにも歪では無く、本当はもっと誠実な物なのだろうか。助けてと言えば差し伸べられる手はあって、もっと穏やかで優しく許されて。  ああ……光が見えた気がして、心がふわりと軽くなる。  やっぱり、父さんだったんだ。  父親だったんだ。  話していると一人二人と派手な格好の女性達が出勤して来て、そろそろと俺は立ち上がった。 「あぁ、朔実。気をつけて帰れよ」 「うん、ありがとう。兄貴に連絡するよう言っておくね」  店の鏡張りのドアを開けると、夕暮れの町並みは早くもピンクやブルーの明かりが灯り始めている。来る時は人もまばらだった交差点にはスーツ姿の若い男や女性が歩いていて、この町に人が集まり始めている。  表情を変えつつ有る景色を背にスマホをチェックすると、卯月さんからメールが入っていて、連絡しなかったから心配してくれているみたいだ。  あぁ、また失敗したなと、俺は今から帰るのメールを送る。するとすぐに着信があって、余計に悪かったとスマホの画面を見つめてしまった。  どうしよう。  いや、悩んでる場合じゃない。 「もしもし」 『朔実?今どこ?』  すぐに聞かれた、それに答えたく無い訳で。 「大丈夫、今から帰る」 『そう。じゃあ寮の部屋で待ってる』 「え、なんで」  もしかして居場所がバレたんじゃ無いかと、思わず辺りをキョロキョロしてしまう。  だけど電話の向こうの卯月さんは、一呼吸置いた後で、話が有るとゆっくりした口調で言った。 「なに?」 『昨日の事を謝りたくて』  病室での事なら無かった事にしてほしい。 『ああいう事をするつもりは無くて、俺の事は考え無くていいから。今の朔実に負担をかける気は無いよ。進路を決めて、刹那のさんが落ち着いて、余裕が出来た時に考えて貰える存在で有りたいって、望まれても無いのに自分からキープされに行ってるだけだから。その時が来ても無理に俺を選ばなくてもいいんだよ』  なんて……。  もしも逆の立場だったら、同じ事は言えない。 「分かった、行くね。待ってて」  その時が来ても、これ以上優しい人には出会え無いと思う。

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