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第25話
刹那の自殺が祖父の件では無いとするなら、じゃあ他に何がと考えるとやっぱり俺のせいとしか思えなかった。
高卒の給料で高校生の弟を抱えてアパート暮らしなんて、遊びたい時に生活苦ばかりで死にたくもなる。でも一千万という額の貯金には手を付けていなくて、死ぬくらいなら使うはず。
「ねぇ、刹那。俺の事……邪魔だった?」
ベッドの傍らに寄り添って尋ねても、俯いたままの無表情は答えてはくれない。
分かってる。聞けるのは返事が無いからで、答えが返って来るなら怖くてとても聞けない。
そこに病室のドアをノックする音が静かに響いて、卯月さんがやって来た。もうリハビリの時間みたいだ。
「朔実、刹那さんの……」
言いかけた声が途切れて、卯月さんが少し驚いたような顔で俺を見る。
「なに?」
「いや……」
気まずそうに目をそらされて、何かしたっけ?
「刹那、ちょっと売店に行って来るね」
ベッドサイドを卯月さんのために空けると、上着を貸そうかと言われて意味が分からない。真夏の真昼間になんで上着。しかも病院は節電であんまり涼しく無いし。
断って歩き出した俺の後を、ベッド周りのカーテンを引いて刹那の目を隠した卯月さんが追って来る。
「朔実」
ピタリと首の後ろを手を当てられて、びっくりした。うなじから肩甲骨まで掌の温かさが伝わって来て、何をしているんだろう。
「このシャツ初めてだね」
「洗濯溜めちゃって、刹那のやつ。変?」
うなじに置かれた手がそのままシャツの後ろ襟を引っ張って、生地をパタパタ振られる。そうされると前が絞まって苦しい。
「変。襟ぐり開きすぎ、肩落ちそう」
「そういうデザインなんだよ」
「刹那さんなら似合うだろうけど、お子様には早いんじゃない?」
そんなはっきり言わなくても。
普段は丸襟のティーシャツばっかりだけど、全部洗ったら服が無くなったから刹那のをダンボールから出して来た。
「別に何でもいいよ、服なんか」
言いながら振り返った時、俺の背中に視線を注ぐ卯月さんの目を見てしまってドキッとした。まぶたがゆっくりと上がって現れた、射るようなきつい眼差し。
「誘ってんのかと思うわ」
「なに、が……」
何ていう、目。
一瞬で空気が変わったのを肌で感じる。頭の中が真っ白に消し飛んで、息が苦しくなる。
「……朔実」
小さく呟かれた名前は呼ばれたのでは無くて、背中に卯月さんが顔を寄せる気配がする。わざと悟らせるゆっくりとした動で肩口に髪を触れさせて、頚椎の一番下の骨辺りにふっと柔らかな温かさを感じた時、ドクっと心臓が跳ねた。
触れたのは、きっと唇。
なんだ、これ……。
俺は逃げる事も、やめてと言う事も出来ずに立ちすくむ。吸い込んだ息をそのまま胸に詰めて、呼吸も出来ない。どうしたらいいか分からない、動けない。
ただドクドクドクドク打つ鼓動に耐えて。避ける時間は十分与えられていたのに、うなじを滑らせて上って来る唇と、舌先がゆっくり肌を舐める濡れた感触がやばい。白衣から微かに香るクリーニングの匂いがヤバイ。卯月さんの前髪が肩をくすぐるのがやばい。
経験値ゼロのお子様には耐えられない……もう耐えられない。
胸がキリキリする。
やばい、本当にもう無理、心臓が口から飛び出る。
そう思った時、刹那のベッドを囲むカーテンが内側からバサリと揺れて、床にリハビリで使うゴムボールが一つ転がって来た。
ピンクのゴムボールが窓からの日差しの中で、コロリと床に止まる。
ちっ……と、卯月さんが舌打ちした次の瞬間、ぱっと離れた。
「刹那さん、お待たせしました。今日の体調はいかがですか」
俺は……。
どうしよう。どうしたらいいんだろう。こんなの分からない。
カーテンの向こうでリハビリが始まった気配に、病室には居られ無くて廊下に逃げ出した。
なんだったんだ今のは。
あんなの全然卯月さんらしく無くて、シャツのせいか。
廊下のトイレに駆け込んで洗面台の鏡に自分の背中を映すと、うなじの生え際から首、そのまま背中の始まりが見える辺りまで襟が大きく開いていて、普段の丸襟ティーシャツじゃ見えないながたらかな曲線が見えている。
これか……。
まさかのタガが外れたんだ。
刹那のシャツ、破壊力絶大。
「あー……」
俺はそのまま洗面台の下にしゃがみ込んで、頭を抱える。
なんか、凄かった。
あんな卯月さん初めて見た。動けなかった。
「……死にそ」
考えなきゃいけない事が沢山ある。刹那のこと、親父に会うこと、将来のこと、そして卯月さんのこと。
今は刹那の事だけ考えていたいけど、そうも行かないみたいだ。
トイレを利用する患者にギョッとした目を向けられて、俺は何食わぬ顔で廊下に戻った。
その日の夜、アパートに帰宅した兄貴に、明日親父に会いに行けと一枚のメモを渡された。
メモに書かれていた住所をマップ検索したら家出した時に迷いこみそうになった繁華街で、卯月さんに行くなと言われたその先に親父の店は有るらしい。どこに居るのか全然知らなかったけど、意外に近くに居たんだな。
翌日は出掛けなければならない事を思うと憂鬱で、病室で刹那のベッドに上半身をうつ伏せれば、刹那が少しは動かせる左手で俺の頭をポンポン叩く。
「……っん、あ……」
何か言いたい事が有るようで、目はベッドサイドのテレビに向けられたまま。画面は幼児向け番組をやっていて、簡単な歌に単純な番組は分かりやすいみたいで夢中になっている。
刹那の心は今、何歳くらいなんだろうか。
「サク……サク……」
画面の中の子供が俺に見えるようで、こっちに来いと呼んでいる。
刹那は、母が連れて来たあの子供をきっかけにして、全部の子供をサクと呼ぶようになった。
本当の俺はここに居るのに。
「ここに居るよ」
「サク……サク……」
「居るよ、刹那」
俺はここに居るんだ。画面の中でも、小さな妹が演じる俺でも無く。
刹那は俺の名前しか呼ばない。言葉を忘れたのかと思えばそうでも無く、書かせれば震える字を少しは書いたりする。声も出る。なのに俺の名前しか呼ばない。本当の俺と同時に子供の頃の俺も見えている。
刹那の世界は分からない。
「サク……あー……」
「うん。居るよ」
起き上がって刹那の頭を抱え込んだら、画面が見えなくなったせいですぐに大人しくなった。
いい子だと髪を撫でると、気持ち良さそうに目を閉じて身を預け切って来る。
刹那は今の俺も正しく俺と認識していて、この現象を理由を付けて考える事は出来ない。卯月さんの言うように、そのまま受け入れるしか無くて。
刹那の髪を撫で、背中をあやす二人の世界は穏やかだ。
もう眠くなったのか、うとうとし始めた表情は今まで見た事が無いくらいに安らかで。
二人きりの世界は穏やかだ。
「少し眠ろうか。ごめんね、今日は早く帰るね」
ピクリと、刹那の肩が動く。
聞こえている。ちゃんと理解している。俺の声は届いている。
「大丈夫、明日また来るから」
そうやって寝かしつけてから病室を出た俺は、廊下で卯月さんが他の患者の歩行訓練をしている姿を見つけた。
どうしようかと迷う。
一人で行くなと言われた場所に黙って行くのは気がひけるけど、話した所でどうなる訳でも無いし、単に自分の気分の問題。
迷っているうちに卯月さんが俺に気付いて、目が合うとふっと笑いかけてくれた。
ダメだ。他の患者の訓練中に邪魔するのは良く無い。
そう思って笑顔を返したけれど、卯月さんは逆に笑顔を引っ込めて首をひねった。
失礼な。
後で電話をよこせのジェスチャーを送られて頷いたけれど、やっぱり仕事の邪魔は良く無いと行き先は告げなかった。
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