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第24話
夢は最後のシーンを映し出す。
四年前のあの日。
深々と音もなく雪が降り積もったあの晩。
二階の自室で寝ていた刹那は階下から聞こえた物音に目を覚ました。まだ日が登るには早い早朝で、部屋の空気は凍える程に冷たく澄んでいた。
祖父の体調でも悪いのかと思った刹那は、階段を一階へと降りて行く。裸足に履いたスリッパが冷たくて、階段の手すりを掴んだ手を冷たさに思わず引っ込めた。
祖父の部屋の襖の前に立って声をかけても返事は無い。けれど耳をよく澄ませば、何者かが息を殺して呻いている音がする。
異変を感じた刹那は襖を開けて、真っ暗な部屋の 中央辺りの空中に手を彷徨わせる。そこに天井からぶら下がっている電気の紐が有るはずだった。紐を掴めずに二度三度と宙を切る内に、慣れて来た目が障子越しの仄かな明かりに紐の細い影を見た。
降り積もる白い雪がわずかな光を反射して青く光る、ぼんやりとした雪明りに黒い影が浮かぶ。片隅の仏壇、床の間の段差、そしてうずくまる黒い人影。
「じいちゃん?」
掴んだ紐を引くと、パッと灯った明かりの下に、布団の上で前のめりに倒れこむ祖父の姿があった。同時に座っている布団が真っ赤に濡れている。
血だ。おびただしい量の血。
すぐに駆け寄って助け起こすと、祖父は刹那の腕の中で浅く早い呼吸を繰り返した。
「……どっちだ……セツ……サク……どっち……」
途切れ途切れの掠れた声は、耳を口元に近付けないと聞こえない。薄く目をを開けた祖父はもう刹那の顔すらよく見えていない。腹には包丁が刺さっている。
「刹那だよ、じいちゃんしっかりして、救急車呼ぶからしっかりして」
必死で言う刹那に、祖父はわずかに首を振って拒否を示す。
「なんでっ」
「……そこに……」
そこと、骨と皮ばかりになった年寄りの手がゆるゆると伸びて、人差し指で仏壇を示した。
ゆっくり、ゆっくり、伸びて行く指は力無く関節が曲がり、深いシワが幾つも幾つも刻まれて、まるで鴉の足のようだ。
仏壇には白い和紙に包まれた一通の遺書があった。
開いて見れば、そこには自分の子供たちに向けた恨み言がびっしりと書かれていて、遺書はゾッとする程の怨念に満ちている。
老いぼれて、とっくの昔に家族から捨てられた一羽の鴉。
それでも孫を育てながら長い長い年月胸に秘めていたのは、後悔ばかりの枯れた手。
真っ黒だ。どこまでもどこまでも、長年蓄積された膿は溢れて溢れ出す。
死に切れずに苦しむ祖父は、刹那に介添を言い付けた。自分で腹を裂いても死ねる物では無く、けれど首を切り落とせば息の根を止めた他の者の存在がすぐに分かってしまう。
嫌だと何度も何度も泣きながら首を振る刹那に、祖父は自分の腹に刺さったままの包丁を握らせる。
嫌だ、殺したく無い。
けれど時間はどんどん過ぎて行き、体力の無い祖父はもう保たない。
障子の向こうで夜が明ける。
早くしないと二階で寝ている弟が起きて来る。自分がやらなければ祖父は朔実にやらせるだろう。弟に人殺しをさせる訳には行かない。あの子は綺麗だ。子供の頃からみんなに愛されて、わがままで、さみしがり屋で、人の裏を見る事を知らない。薄汚れた自分とはまるで違う。朔実を汚すくらいなら、自分が幾らでも汚水に浸ろう。
真っ黒だ。
年老いた枯れた手は、どこまでもどこまで黒く……。
握った包丁の柄が血で滑る。
どくどくと溢れ出す熱い血潮が冷えて、残り少ない命の時間が消えて行く。
覚悟を決めた時、刹那の中で何かが変わった。
痩せた身体を支えるために祖父の背中に回って、すまないと息で呟く祖父の腹に力を込めて突き刺した包丁を一気に横に引く。肉を切る重い感触と生温かい血。
事を終えた刹那が見た物は、障子の隙間から登った朝日が照らし出す、どこまでも真っ白な雪景色だった。
キラキラと輝いて果てなく白く。
あぁ……輝きながら雪が降り積もる。
赤も黒も全てが白に覆い尽くされて行く。
これが、二人で暮らし始めてから刹那に聞いた、祖父の最期だ。
それでも二人で生きて来たんだ。秘密を隠して隠れるようにずっと二人で。
あれから四年、どうして今更刹那が死を選ぶのか。
俺が側にいる限り一人じゃないから、これは理由にはならない。
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