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第23話
「記憶の混乱でよくある症状なんだよ。ドラマとかの記憶喪失だと、私は誰、ここはどこになっちゃうだろ。でも本当はそうはならなくて、一部分だけ抜けたり最近の事を忘れる事が多い。古い記憶の方が残るんだよ」
その日の夜はまた卯月さんの寮の部屋に来ていた。
刹那の変化はすぐに主治医に伝えられて検査の予定が組まれたけれど、結果を待つよりも卯月さんに聞いた方が早い。
「なんであの子を俺の名前で呼んだんだろ」
「刹那さんが見て来た子供は、弟の朔実が一番印象強いからじゃないかな」
「じゃあ、ここに居る俺は何なの」
「お前も朔実で、その子も朔実。刹那さんの中で時間軸がズレて過去と今が同時に進行していて、朔実が二人居るんだ」
意味が分からない。
一人しかいないはずの俺が刹那の中には二人居る。そのうちの一人はもうとっくに失った子供の姿の俺。現実には居ない俺。
「わかんねぇ……」
理解出来ない。ドッペル何チャラだって現在の自分が二人出没してる訳で、十年以上も前の自分は出て来ない。
考え過ぎて疲れたから、ゴロンとフローリングの上に寝そべった。
「うーん、難しいよな。そこを理解しようと思うとこっちの頭がこんがらがるから、そうなんだって受け入れるしか無い。だんだん整理されて現在に近付くはずだよ」
「現在に近付く?」
待てよ、今の刹那の記憶が無いなら、爺さんの事を忘れているかも知れない。いや、絶対忘れてる。記憶を失くして爺さんの死に様だけ覚えてるなんて無いだろう。だとしたら。
「思い出したらどうなるの」
「どうって、それを目指して治療するんだろ」
「それはだめだっ」
そうしたら刹那がまた死んでしまう。爺さんを殺した事を思い出したら、また死のうとする。
「なに?どうしたの?」
血相を変えて叫んだ俺に、卯月さんが目を瞬かせた。
「ごめん、なんでも無い」
「もしかして、妹に刹那さんを取られるかもって心配なら違うぞ。そのうち別人だと分かるよ」
そうじゃ無い。五歳程のあの子を俺と言うなら、刹那の中の刹那本人もまた子供のはず。だとしたらあの子をそばに置いておけば。
著しく回復するのは二年で、その後は穏やかになるって本で読んだ。それまでの二年間、あの子を俺だと思い込ませたままそばに置いておいたら、刹那の記憶は戻らずに祖父の事を思い出さないかも知れない。
いや、ダメだ。刹那は今の俺もまた俺と認識している。
「あー……どうなってんだ……」
これまでにも色々と調べたけれど、本に載ってるのもネットで検索出来るのも誰かの話で、刹那がどうなのか分からない。
「卯月さんから見て刹那は回復してると思う?」
「してるよ、しかも早い。やっぱり若さと、それから事故後の処置が早かった事。あとは高坂先生ギリギリの判断で低体温に踏み切ったのが良かった。脳梗塞なんかを併発せずに脳圧が下がって、即打ち切ったのもさすが。いい医師に当たったのが幸運だったね」
まさかのベタ誉めに、思わず俺は卯月さんを見つめてしまった。そうなのだろうか。俺からすると不満なんだけど。
「なに?」
「別に」
「あー……朔実に素っ気無いのは仕方無い所も有るんだよ。お兄さんに説明してあるのに二度手間になる。そんなに暇じゃない」
「患者の家族に説明するのが手間なのかよ」
「悪い、今のは俺の言い方が悪かった。高坂先生は優秀な脳外科医だよ。うちの病院はね、身内の中から医師と話す人を決めて貰って、最初から最後までその人で通すんだよ。相手が変わると初めから説明しなきゃならないだろ、そういうシステムなんだ」
そばに居るのは俺なのに、毎日付き添って毎日心配して、少しの変化に一喜一憂して。そういうのも決められたシステムに負ける訳か。
やり方、ルール、システム、そんな物ばかりだ。
「怒るなよ。な、腹減らない?何か食べに行こうか」
まるっきり子供扱いだし。
卯月さんに文句を言っても仕方無い。ルールには従うしか無い。刹那の頭の中は理解できない。
俺はため息を吐いた。
「何か作るよ、栄養有りそうな食材貰うね」
「どんどん使って、ツマミしか無いけど」
「分かってる」
甘えてばかりは悪いので申し訳程度にしかならないけれど、出来た料理をテーブルに並べると、卯月さんは大げさに喜んでくれた。
「やっぱり凄いな、朔実は。美味いよ、幸せの味がする」
なんか知ってる。役に立つ事をするとさも驚いて褒めて、次から進んでやるように仕向けるこの技を、俺はよーく知ってる。
卯月さんはホクホクの肉じゃがを幸せそうな笑顔でツマミながら、焼酎を飲んでる。酒が進むと上機嫌で、俺のチンするご飯に肉を乗せてくれた。
「朔実は和食が上手いね、調理師は板前希望?」
「え?」
「ジャンル。ほら、和食は板前で、他は何て言うのか知らないけど、中華にイタリアンにって色々有るじゃん」
「あー……」
困った。そんな詳細な事、考えて無かった。ただ調理師なら出来そうってだけで。
「うーん……ファミレス?」
「オールマイティだな」
「給食センターとかでもいいんだけど。病院の調理場とか」
「いやいや、希望の勤務先を聞いてるんじゃなくて、何を専門にやりたいかなんだけど。自分はこれが得意ですって物を持って無いと通用しないのは、普通の会社員より専門職の方が強いと思うよ」
何それ困った。専門職の中にも専門が有るって事だろうか。
「難しいな、何でもいいんだけど。働ければ」
「前もそんなような事言ってたね。お兄さんは何て言ってるの」
「別に。好きにしろって」
そう言ったら卯月さんが頭を抱えた。
俺の将来はふわふわしてる。けど働かなきゃいけないのは事実で、稼げればいい。刹那と生きて行くために。
「あのさ、やりたい事を仕事に出来る人はほんの一握りだけど、それでもみんな働いてるのは背負う物が有るからだよ。よく考えて、朔実がコケたら刹那さんも一緒にコケる。まだ選択の余地が有るんだから、刹那さんを背負うつもりで続く仕事にしな」
俺がコケたら刹那も一緒にコケる。
目が覚める思いでテーブルの向こうの卯月さんを見れば、当たり前の事と気にもせずにグラスの焼酎を飲んでいて、氷がカランと音を立てた。
やっぱり……ちゃんとアドバイスをしてくれる人が居ると違う。俺が路頭に迷えば刹那も一緒に迷うという事で、絶対に仕事は辞められない。ただ闇雲にずっと一緒と信じていたけれど、そうなれるだけの自分にならなきゃいけない。
調理師は出来そうってだけで、本当にやりたいかどうかは分からない。刹那を背負って負けずに続けられる仕事か……。
卒業まであと半年。進路の決定はもっと早くて、考えなきゃならない事はいっぱいだ。
「ありがと、目が覚めた」
「何が?」
「進路考え直す。やっぱ卯月さん頼りになる」
そう言うと、卯月さんがびっくりしながら笑った。
「朔実が自分の事を考えようと思った事が、俺は嬉しい」
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