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第32話
それは長い長い昔話だ。物心ついた時からこれまでの、とても長い話。
楽しい事なんか一つも無くて、怖い思い出ばかりをつっかえつっかえ話す俺の言葉を卯月さんはとても辛抱強く聞いてくれた。そして全てを話し終えた頃には、部屋の中は真っ暗になっていた。
「そうか……」
卯月さんはまず部屋の電気を点けに行く。パッと点いた天井のライトが眩しくて、ベッドの上で上半身を起き上がらせたら頭がクラクラした。動揺のせいか目もチカチカして、なんで話してしまったのか……後悔に押しつぶされそう。
人に話してしまったら、もう後には戻れない。俺と刹那はどんな罰を受けるのだろう。
お婆さんの事だけどと、卯月さんがベッドに座って少し揺れる。肩に腕を回されて視線を上げるとスッキリした顎のラインが間近に見えて、俺は促されるまま肩に頭を預けた。もたれかかると力の抜け切った身体を支えて貰えるのが心地いい。
「お婆さんが倒れた時に朔実は小さかったから、死水という言葉で死を意識したんだろうけど、四つ年上の刹那さんは違ったと思うよ。死という物を肌で感じたはずだ。死に直面している人と二人で部屋に残されて、怖かったんじゃないかな」
「怖かった?」
「死にそうになっている相手をこのチャンスに殺してやろうとは思わないだろ、小学生ならまず怖い。そして名指しで水を要求され続ければ、後がどうなるなんて知らずに渡してしまうよ」
それは、そうかも知れない。俺が婆ちゃんが死ぬと思ったのは爺さんが言った言葉のせいだったけれど、異様さは感じていた。だから爺さんを追いかけて外に飛び出してしまったんだ。
「お婆さんが亡くなった後で、刹那さんは水を与えるとどうなるかを調べて自分を責める。同時にお母さんを追い出されてしまったら、残された朔実を守る方に行くだろうね、自分のせいで小さな弟から母親を奪ったと考えて」
「え……」
「刹那さんはいつも朔実の側に居てくれてるじゃないか。少しずつ家事を教えて、面倒をみて。やらなくても失敗しても怒らない、どんなに下手でもやれば精一杯褒める。上手いな、本当に我慢強い頭のいい子だ。そんな刹那さんにお爺さんは黙ってお金を渡し続けて、お前の家族で一番病んでたのはお爺さんだと思うね」
「爺さんが?」
「なぜお婆さんの虐待から刹那さんを守らなかった?どうして崩壊する前に何かしようとしなかった?自分の娘達がお母さんを追い出すのを、他の誰に止める事が出来た?お爺さんは自分の死後の揉め事ばかりを望んで、挙句刹那さんに自分を殺させた。そこまで自分の事しか考えない無関係さは心が病んでる。刹那さんは人格形成が必要な時期に別の家に預けられているから、朔実の家族とは考え方が違う。優しい人だよ、誰よりも朔実を思ってた。自分がやらなければ爺さんは朔実に殺させると、お前を守ったんだ」
俺は……。
じゃあ、俺は刹那に愛されていたのだろうか。
荒れ狂う台風の晩は怖くて刹那のベッドに潜り込んで、友達と喧嘩した悔しさを刹那に聞いて貰って、二人でコンビニまでお菓子を買いに歩いて……。
思い出の全部に刹那が居る。
ハラハラと何かが剥がれ落ちて行く。目には見えない何かが身体からハラハラと剥がれ落ちて、思わず両手を膝の上で広げると、薄紅の花びらが散り落ちた錯覚を見た。
刹那は俺を思ってくれていたのだろうか。そんなの決まってる。ずっとずっと一緒で、俺を連れて家を出てくれてからもずっと俺のために働いて……なんで嫌われてたなんて思ったんだろう。
ハラハラハラハラ、降り積もる真っ白な雪が花びらのように色付いて、心の中に舞い落ちる。
俺は思われていた。
ずっと一人で考えていた事の答えを他人の卯月さんに貰って、泣きすぎてもう枯れ果てたと思った涙がまた溢れて来て、瞬きで頬を伝う。
「警察に行かないと……」
「お爺さんの事なら朔実が行っても意味は無いし、警察は今の刹那さんをどうする事も出来ないよ。それに、誰が責められる?十八の子供が弟を守るために必死にやった事で、刹那さんはもう十分苦しんだ被害者だ」
本当の刹那がどんな人なのか、優しい人だと分かって貰えた事がとても嬉しい。
「刹那さんは今、生まれ変わろうとしている。病院では奇跡の回復劇は日常茶飯事的に起こってて、刹那さんは奇跡を起こせる一人だ」
「刹那が?」
「まず処置が早かった事、治療が功を成して余病を併発していない事、そして事故直後から朔実がつきっきりでずっと呼びかけて刺激を与え続けていた事。奇跡の種は沢山あって、身体の怪我が治れば左半身は元通りなはず。右半身に麻痺は残ってもまだ若い、想像以上に回復が望めるし、言葉や他の事に不自由さが残るだろうけど、そこは朔実が言語聴覚士になってカバーすると思ってた。自分に何が出来るのか、どうする事が一番いいのか自分で考えろ。今のお前は、刹那さんがお前を守ったのと同じ歳なんだから」
刹那ために何が出来るのか。
これまでずっと守られて来た俺が、今度は刹那を守る事が出来るかも知れない。俺がする事は死ぬ事じゃ無い。この先刹那の回復を助けて、刹那と一緒に生きる事だ。今度は俺が刹那のために生きる。
治った刹那と今度は二人で穏やかに暮らしたい。それがいつになるのか分からないけど、その頃に俺はちゃんと働いて小さな家を借りて。
それは遠い遠い夢物語のように思える。だけどきっと叶う夢で、未来の形なんだ。
刹那の笑顔が見えた気がした。
あまり笑わない人だったけれど、たまに見せる笑顔は綺麗で、赤い唇から真っ白な歯が見えて。思い出の中で笑う刹那はとても、とても綺麗だ。
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