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第33話
それからすぐに二学期が始まって、俺の生活は日常に戻った。
朝は兄貴と一緒に家を出て、クラスメイトといつも通りのくだらない会話で笑って、刹那の事を誰も知らない学校に居るとあの白い建物のでの一ヶ月が嘘みたいに平和だ。
あれから卯月さんとは会っていない。
あの晩を最後と言った言葉は本当で、電話の一本も無かった。
考えてみれば仕事を持っている社会人から見て、俺の親父は関わりたく無い人種であり、そして俺が隠していた秘密も関わりたく無い事で。
……迷惑にしかならない。
それに気付いた時、俺からは電話も出来なくなった。
だけど卯月さんは今日もあの建物の中で働いていて、俺や刹那と同じように何も見えなくなってしまった人達に寄り添っているのだろう。
卯月さんがどれだけ大きな物をくれたのか、少し落ち着いた今なら分かる。あの人は神様みたいに大きな人だった。
「ご面倒をお掛け致しますが、よろしくお願いします」
三ヶ月後、水色だった夏の空が抜けるように青く高くなって透明な木枯らしが吹き抜ける頃、刹那は転院先のリハビリ病院から元の病院に戻った。
十日程でリハビリ病院のベットが空けばまたそっちに戻る予定の転院は以前卯月さんが約束してくれた通りで、聞けばこうやって病院をぐるぐる回っている人は多いらしい。
この病院に、卯月さんが居る。
玄関まで出迎えに来てくれた看護師と光輝が挨拶を交わしている間、車椅子に座った刹那は表情を固くして通りすがりの人を視線で追っている。人に見られるのが嫌みたいだ。
「大丈夫だよ」
俺が肩に手を置くと刹那は前方を指した。
「さく」
車椅子を押せという意味で、挨拶の間すら待てないらしい。
「もうちょっと待ってて」
「おそい」
「だってしょうがないじゃん」
まったく神経質でわがままな患者だ。俺が言うことを聞かないもんだから、自由に動かせる左手足を使って自分で車椅子をこいで行こうとしてる。
徐々に回復して来れば、刹那は刹那だった。
子供に戻ったと思われた記憶は、混乱では無くて喪失だった。自分が誰で俺が弟という事も分かるし、兄貴の事も覚えている。だけど昔あった事や様々な事が抜け落ちて繋がらない。刹那の記憶は作りかけのジグソーパズルのような物らしい。にも関わらず性格は変わらないんだから、人間とはそういう物なのだろう。
「せっかちだなぁ」
左足一本で廊下を蹴って進んで行く。部屋も分からないのに、どこに行くつもりんだろう。俺は付き添って歩きながら、もしかして居ないかなと辺りを見回した。
混雑した会計窓口や売店、レストランの横には花屋が並んでる。院内で一番賑やかな通路は人が多くて、この中から居るかどうか分からない人を探すのは難しい。
結局見つけられないまま病室に行くと今度の病室は四人部屋で、昼寝中の爺さんが二人に刹那と同じ年くらいの若い男性が一人、それぞれのベットで寝ていた。
「兄がお世話になります。滝川です、よろしくお願いします」
一人一人に挨拶をして回る俺は、隣のベットの男性に可愛いーっと叫ぶように返されて面食らう。
「ちょっと、この子が隣のベットなの?」
「いえ、入院されるのはお兄さんの方ですよ。彼は付き添いの弟さんです」
看護師が引き気味に返している。
なんなんだろう。可愛い可愛いとひたすら連呼している男は妙に小綺麗なパジャマ姿で、爪にピンクのマニキュアを塗っている。
病院も色々な人が居るもんだ。
一段落してから病院の中をうろついて卯月さんを探したけど、意外に会えない物で、そうこうしているうちに夕方の診察の時間になってしまった。
今日は初日なので主治医と他担当の職員が病室にやって来て、刹那の様子を見ている。その中に白衣の卯月さんの姿もあって、あっと思った。探さなくても向こうから来るのか。
「刹那さんお久しぶりです。俺の事覚えてますか」
ベットの傍らから声をかけた卯月さんに、刹那は微妙な顔をしている。薄く微笑んだ卯月さんの瞳は親しさを込めた優しい物で、あぁそうだった。この人はいつも他者に寄り添う優しい目をしていた。
「覚えては無いでしょう、意識が曖昧だった頃の事だ。左半身は順調ですね、骨折も良さそうだし、若いだけあってバランスがいいからトイレの介助は必要無し、入浴は……」
淡々と告げていた医師が、言葉はどうかなとベットに座っている刹那に顔を近付ける。
「滝川さん、喋れますか」
顔を覗き込んで問う医師に、刹那はふいっと横を向いてしまった。
「今日はいい天気でしたね。移動はどうでした?」
態度の悪い刹那に見ているこっちがハラハラしてしまう。
そこで卯月さんが刹那の手を取った。
「弟さん、可愛いですね。お兄さんに付き添って偉いな」
刹那はゆっくりと卯月さんの方に顔を向けて頷いた。
「ん。さく。こーこーさん、ねん」
驚いた。喋った。
「じゃあもうすぐ卒業ですね。進学ですか?」
「ん。せん、もん、がっこーいく。同じ」
同じと卯月さんの白衣を指差して得意そうに笑っている。
「凄いな。将来の後輩だ」
「あぁ、回復が早いな。理解もしているようだし」
医師の言葉にホッと胸を撫で下ろした時、診察が終わって白衣の集団がゾロゾロと部屋を出て行った。
部屋のドアで見送る俺は、出て行ってしまう卯月さんの背中を視線で追う。
一度も俺の方を見ない。向こうは仕事だし、他の職員と一緒だし、三か月間一度も連絡をしなかった事を怒っているのかも知れない。思い当たる理由は色々あって、でも寂しい。
あの優しい瞳が俺を見てくれないのは、寂しい。
遠ざかる白衣の背中に、あの日屋上で卯月さんじゃダメだと叫んだ自分の言葉はこういう事なんだとやっと理解した。
俺たちの関係は終わってる。普通の付き合いだったら何年ブランクがあっても絶縁は無いのだろうけど、男同士でも好きと嫌いが絡むとこういう意味だ。
集団が角を曲がって見えなくなるまで見送って、俺は肩を落とす。
病室に戻ろうとした時、朔実と呼ぶ声が聞こえた気がして顔を上げると、窓から射し込む逆光に眩しそうに目を細める卯月さんが角を戻って来ていた。
「久しぶり。元気そうだね」
ゆっくりと歩いて来た卯月さんが俺の前で微笑んでいる。
嘘みたいだ、なんで。
「なに?朔実まで忘れた?」
親しみを込めた優しい瞳に俺が映っている。
「ま、さか。卯月さんに言いたい事が沢山あって……ずっと会いたくて」
「うん。でもそれ、着歴一つ残さない奴のセリフじゃ無いから」
「それは……」
蘇る。この人がどんなに優しくて大きくて、俺を支えてくれたのか。
「別にいいよ。もう終わってるから」
その一言で闇に落ちた。ひゅるると、まるっきりの急降下。
「進路、予定通りみたいで良かった。頑張れ」
「え、うん。でも専門学校落ちるかも」
「えっ、なんで。お前バカなの?落ちたら元も子もないだろ」
思いっきり呆れた声で言われた。
「うん、俺バカなの……」
「お前……」
思わず二人で足元の廊下を見つめてしまう。
「仕方ない、頑張れ」
「うん」
何を言ったらいいか分からない俺に、少しの間だけどよろしくと言い残して卯月さんは行ってしまった。
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