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第35話

 俺と刹那の関係が変わる。  それはどういう事だろう。 「差し替える過去は刹那さんにとってなるべく普通で温かい家族がいい。結果的には崩壊して朔実と二人で暮らす所まで持って来る訳だけど。そうするとお母さんが出て行って残されたとしても、刹那さんはそこまで頑なに朔実を守らなくても良くなるんだよ」 「なんで、だって……」 「必ず誰か大人が着いてるから」 「あ……」  そうだ。孫を可愛がってくれる祖父母だったなら、ちゃんと守って育ててくれるだろう。  親が居ないというのは兄弟が寄り添う理由にはなるけれど、俺たちのように互いしか頼れないとはならない。そして爺さんその物の存在を消してしまうとなると、二人で背負った罪も消えて刹那は楽になる。  楽になって俺への思いが変わる。 「後遺症は残っても、回復した刹那さんは朔実の知らない誰かと恋をする。いずれ結婚すると言いだすかも知れない」 「そんな、相手が……」 「居るだろうね。世の中に献身的な女性は幾らでも居るし、骨折もほとんど治ってるからもう三か月したら歩行器で歩き始めて、二年後には喋らなければ半身麻痺とは一見分からなくなると思うよ」  それは願い通りの回復で、卯月さんが言うのだから本当だろう。  刹那との関係が変わるとどうなるか。いい手本が今の俺と兄貴の関係で、一緒に住んでても用事が無ければ顔を合わせる事もしない。会わないから話もしないし、ただ気配は感じるから風邪もひかずにそれぞれ学校と職場に行っているんだろうと。 「いつか朔実は、刹那さんを奪って行く人によろしくお願いしますと頭を下げて、二人を送り出さないといけない。それからもずっと二人の生活ぶりを見続けて、一生続く。それが出来る?」  出来るのかと問う卯月さんの眼差しが鋭くて、俺は息を飲んだ。  今は俺だけの刹那が誰か他の人を愛して、あの目で別の人を見て笑って、いつか家族が増えるかも知れない。それをずっと見続けること。 「出来る」 「出来るなら恋じゃない」  即座に言い返されて言葉に詰まる。  この想いを恋じゃないと言うなら、では恋とはなんだろう。 「愛には色々な呼び方があって、でも恋は一つだ。朔実の想いは特殊な境遇に勘違いした深い兄弟愛だよ、心配すんな」  兄弟愛って、そんな事を今更言われても。 「死ぬよりは生きていてくれた方がいい。他の誰かとでも幸せならもっといい。愛ってそういうもんじゃないの」 「もちろんそうだろうね。だけどそれにも段階があって、ある程度落ち着かないとそうは願えない。今の朔実なら独占欲の塊でも不思議は無いのに、あっさり恋敵との幸せを願えるのは兄弟愛だからじゃないの」 「だって、刹那はずっと俺を守ってくれたから」 「恩返し?もう愛でも無くなった」  挑発的な言い方に、やっぱり怒ってるんだと思った。  卯月さんは一番しんどい時に支えてくれて、いつだって俺を優先してくれたのに、その人に俺は音信不通にしてしまって。 「ごめんなさい。連絡しなかったのは色々考えたら出来なくなって、本当に……」 「三か月後の再会を分かってて俺が引いたんだよ。ギリギリまで切羽詰まった相手の秘密を聞き出して、知った方から連絡するのは脅すようなもんだし、朔実の方からは連絡出来ないのも分かってた」  言われてしまえばその通りで、卯月さんから一度でも連絡があったら、俺は話してしまった事に怯えていたのかも知れない。 「朔実は進学すれば誰かを好きになって、今の思いが何なのか気付く。それは親離れみたいなもんで成長だから誰にも止められない。でも俺にはそれが許せない。俺以外の誰かと幸せになんて絶対思わない」  たった三か月で忘れると思った?と問われて、答られない。  一度は好きだと思った人で、でも刹那への思いが超えた。それを兄弟愛だって言われるのは変だ。もしも兄貴が結婚すると言い出したら俺は普通に喜べるだろう。  納得出来ない俺の表情を読んだ卯月さんは、この話は終わりだと薄く微笑んだ。 「ムキになった、ごめんね」 「うん……あの、俺は卯月さんのことは……」 「その話も一旦置いて」  で、さっき言った方法だけどと平然と話しを戻されて、それでいいのかなぁとちょっと思った。卯月さんの想いは重要な事だけど……。 「さっき言ったのは二十二年という刹那さんの人生を作り変える事で、いつ何を思い出すか分からない人に、いつ何を聞かれても関わる全ての人が矛盾無く繋がったストーリーを語らないと成立しない。ごめん、朔実には出来ないんだ」 「なんで、やるよ」 「地元を離れる朔実には無理なんだよ、そばについて無いと」  そういう意味で無理なのか。  兄貴と母さんにお願いしても、誰かが把握してないとストーリーがバラバラになってしまって、そこから新たな矛盾が生じる。刹那は頭が良かったから、回復するに従って辻褄の合わない事に必ず気付くだろう。 「リハビリ病院で刹那さんは何科になってる?」 「脳外だけど」 「そのうち精神科に移るよ。精神と聞くと心と思うかも知れないけど、結局は頭だ。心も頭で考えるから、外科的経過を終えれば精神科になる。脳の異常は精神の異常で、投身自殺は心が壊れて無いと出来ないんだよ」  あの日の屋上で飛べなかった俺には、言ってる意味が分かった。本気で死ぬつもりだったのに結局出来なかった。 「記憶が戻るという事は、壊れた心も戻るって事だ」 「それはダメだ!」  それだけは絶対にダメだ。 「お兄さんは刹那さんの過去を変える事を反対しないと思うよ、出来るなら虐待を忘れたままにさせてやりたいのが人情だし。だけどそれだと必要無いのはお祖母さんだけで、本当に忘れさせたいお祖父さんの事は理由を話さない限り本当の意味での同意は得られないから、いつか誰かがぽろっと喋る」  でも誰にも理由を言えない、特に兄貴には。爺さんに一番可愛がられていたのが兄貴で、秘密を知ったらそれこそどう思うか分からない。  進学をやめて刹那に付き添うにしても、この先の回復を助けるには知識が欲しい。高卒の給料じゃ退院した刹那と一緒に暮らす事も難しいだろうし、専門職でないと……。  八方塞がりだ、やっぱり曲がった事をしようとすると、道は断たれてしまうのかも。  考え込んだ俺の視線の先でコンコンと卯月さんの指が床を叩いて、意識を引き戻される。 「もう一つの方法があって、三年後朔実が戻るまで俺を刹那さんの側に置けばいい」 「卯月さんを?」 「全て知ってる俺なら上手く誤魔化してやれるし、仕事は理学療法士だし」 「や、でも……」  他人に迷惑をかけられる訳が無いと断ろうとするよりも先に、卯月さんが唇を引き上げで薄く笑った。それから瞬きの瞼をゆっくりと上げて俺を見る。 「朔実が好きでたまらない。俺の全部をやるから朔実の全部が欲しい。そういう事だ」  この人は……。  置かれた話がここに戻って来てる。  俺と刹那の未来を語って、恋じゃないと言って、そうして。  目を閉じれば、真っ暗な視界の中で耳だけが冴えて、しゃがれた声が蘇る。しわがれた低いあの声は、爺さん……。  爺さんが墓場から笑ってる。ほら見たことかと俺を笑ってる。殺した事を無かった事にはさせないと、存在した事まで消そうとしている情の無い子だと笑ってる。 「やる」  迷う余地は無い。刹那が幸せに生きてくれるなら、俺は業を一人で背負おう。

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