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第3話

 病院に駆け付けると、刹那は緊急手術中だと教えられた。 「兄はどんな状態なんですか?」  救急の待合室でちょうど見つけた白衣のスタッフに詰め寄れば、どの患者か分からないから受付で聞いてくれと追い払われる。  何があってどんな状態なのか、そして何が起こっているのか。俺は慌ただしく周囲を見回しながら、白衣の人ばかり視線で追いかけるけど誰も皆急がしそうで。  そうしている間に外で救急車のサイレンが聞こえて数人が駆け出して行く。ガラス越しに見えた揺れるカーテンの向こうに、横たわるぐったりとした知らない誰かの姿が見えた時、ドクッと大きく鼓動が鳴った。  ドクドクドクドク……得体の知れない不安が押し寄せて来て、吐きそう。  どこへ行けばいい。  病院の白い壁に囲まれた廊下で、沢山の人が行ったり来たりしているざわめきの中に立ち尽くした。  飛んだと兄貴は言った。それは高所から飛び降りたという事で、落ちると人はどうなるのか。  ある訳無い。そんなの絶対有る訳無い。誰か教えて。 「朔実、こっちだ」  自分の名前を呼ぶ声にはっとすると、ワイシャツにネクタイ姿の兄貴が、すれ違う人を避けながらこちらに歩いて来ていた。 「兄貴」  最後に見た兄貴は大学生だったのに、記憶にあるよりも大人びた姿に一瞬分からなかった。数年ぶりに会った姿はもうすっかり大人の男で、そんな見慣れない人に藁にもすがる思いで俺は駆け寄った。 「刹那どうなったの、どこにいるの、大丈夫なの」 「落ち着け、こっちだ」  連れて行かれたのは喧騒に満ちた救命から離れた場所で、ひっそりと沈黙した廊下だった。その廊下にある一枚のドアを兄貴が勝手に開ける。  入っていいのかと恐る恐る覗けば、中は簡単な応接セットとテレビ、それに漫画本が数冊置いてあるだけの狭い部屋になっていた。 「長時間の手術になる患者の家族が待機する部屋だ」 「じゃあ刹那は?」 「まだ手術中。運ばれたのは午前中だったらしい」 「なんで、もう昼過ぎてる。なんでもっと早く教えてくれなかったんだよ」 「落ち着け」  噛み付く勢いの俺に、眼鏡の奥の目をすがめた嫌そうな顔。 「俺の所に連絡が来たのも遅かったんだよ。刹那は身元を証明する物を何も持って無かった。何も無い所からどこの誰か探し出すんだから、時間もかかるだろ。分かったらそこに座れ」  そこ、とソファーを指で示されて、諦めた俺は大人しく言うことを聞く。  だけど普通に座ったつもりが、腰が抜けて転ぶような座り方になってしまった。 「それで、刹那はどうなの」 「まず、ビルの七階から飛び降りてる。全身打撲と骨折。それから脳挫傷。だけど奇跡的に植え込みに落ちて内臓の損傷は少ないらしい」 「じゃあ……」 「朔実、よく聞け。七階だぞ。八階からだと死亡率はほぼ百パーセントだ」 「だったら大丈夫じゃないか、植え込みだったって」 「助かっても植物状態になるかも知れない」  植物状態とかドラマや映画ではよく聞くけど、どういう意味なのか正しい事は知らない。ただひたすら眠り続ける俳優の姿が浮かんだ。  黙ってソファーに座っていても壁の時計が秒針を刻む音が耳触りで、二時間程で耐えきれなくなって廊下に出た。  三人兄弟の次男の刹那と末っ子の俺は、二人でアパート暮らしをしていた。親が無い訳では無いけれど、未成年の俺の保護者が刹那という事になっている。高校生と四つ上の社会人との暮らしで、そういえば今朝家を出る時に刹那の姿を見なかった。  うろうろと院内を彷徨い歩いているうちに、気づけば今度はここがどこだが分からなくなっていた。  辺りを見回すと廊下を歩いているのはみんな白衣のスタッフかパジャマ姿の人ばかりで、病棟に迷い込んだのかも知れない。  戻ろうと回れ右をした時、妙にクラクラしてしまって、俺は壁に片手を着いて体を支えた。スーッと目の前に黒い点がカーテンを引くように降りて来る。  立ちくらみだ、こんな時に。  動揺しまくっているせいなのか、どんどん血の気が引いて行く感覚に、壁に着いた手すら怪してしゃがみ込む。  しばらくじっと堪えていたら、どうかしましたかと囁くような声が聞こえた。 「気分が悪くなっちゃった?病院だから大丈夫だよ」  口元を押さえながら見上げれば、心配そうに覗き込む白衣の男性の顔がすぐ近くにあった。 「や、大丈夫です」 「顔色が悪いね。外来?」 「あの、すみません。俺迷ってて、手術を待ってる部屋を探してて」 「ここはそういうの沢山有るからね。何科の手術なの?」  何科。  そんな事聞かれてもわからない。 「わかりません。救急車で、兄が……」 「そうか。君、名前は?」 「滝川 朔実です」 「運ばれたお兄さんは滝川?」 「刹那」  じゃあ一緒に探してみようかと、その人は穏やかに微笑んでくれた。目がとても優しそうな人で、さり気なく肩に置かれた手がじんわりと温かな体温を伝えて来る。  ほっと息を吐いた時、自分の身体に感覚が戻って来て、俺は立ち上がった。 「大丈夫?ゆっくりでいいよ。待ってるから」  不思議な人。そばに居てくれると、赤の他人なのに心強い。それとも病院職の人はみんなこうなのだろうか。 「あの、名前を聞いてもいいですか」 「卯月(うづき)です」  ゆっくりとした喋り方と心地よい声のトーンをとても落ち着く。  俺は一つ、ため息を吐き出した。  卯月さんが調べてくれた待合室では、相変わらず沈痛な面持ちの兄貴が一人で待っていた。仕切りに時計を気にしていて、手術時間が長い事にイライラしているのが分かる。  何を言えばいいのかも分からなくて黙っていても、兄貴に釣られて不安と焦りばかりが押し寄せて。  そしてもうひとつ、ヒタヒタと滲る水のように俺の中に流れて来るどす黒い疑問があった。  刹那は飛び降りた。  飛び降りたという事は自殺で、なんで。なんで。なんで。なんで。どうして。  それ程何かに悩んでいたのか、何が刹那の重みだった。  考えても考えても思い当たらなくて、だけど一つ、心当たりになる物がある。  ……俺か?  高卒の刹那との暮らしは経済的に楽では無くて、刹那はいつも働いていた。俺という存在が荷物だったのか。  俺が悪かったのか。俺のせいなのか。  それから更に時間が過ぎて、手術がやっと終わった。  刹那が運ばれた場所はNCUという脳専門の集中治療室で、すぐに中には入れて貰えずに、壁が一枚ガラス張りになっている廊下から様子を伺う。  並ぶベッドの一つを指して、あれがそうだよと教えられた刹那は、見えている部分が全て厚いシートのような物で覆われた姿でベッドに横たわっていた。そんな姿では誰と言われても、顔も見えなければ背格好も分からない。  俺はガラスに張り付くようにして教えられた人を見つめ、刹那と一致する場所を必死で探して。  だって、身元を証明する物を何も持ってなかったと言ってた。  間違いだってあるはずで、だって自殺をするような事なんて何も無かったはずで。  指紋が付くのも構わずにガラスに両手を押し当て、できるだけ近くへ。よく見えるように。 「朔実、先生からの説明が有る。一緒に聞くか?」  兄貴に言われて、黙って頷いた。 「右のこの部分に局所的な損傷が見えますが、多くはこちらの左側です」  裏側からライトの当たる白いボードにMRの写真を差し込んで、眼鏡の担当医師が言う。三十代後半の男性医師で、高坂先生というらしい。 「これは右を強打した反動で頭蓋骨の中で脳が揺れ、反対側の頭蓋骨内側に当たったと言う事です」  カンファレンス室で兄貴と二人並んで座って、刹那と確信の持てない人の容態を、どうして俺は聞いているのだろう。 「受けた衝撃がそれだけ強く、広範囲を損傷してしまった。今は脳圧が高いので、脳梗塞などの併発を防ぐ目的で一時低体温にして眠らせて、同時に投薬治療を行います」  次に医師はCTで細かく撮った脳の内部の断面を何枚も見せてくれて、どのような障害が予想されるか説明してくれたけど、それは俺の頭を全て素通りして行った。  もしも本当に刹那だったら。  分厚いシートに包まれて沢山のコードに繋がれていたあの人が、もしも本当に刹那だったら。 「兄貴……」  カンファレンス室を出てまたNCUに戻る途中の誰もいない廊下で、先を歩く兄貴の背中が振り返る。 「刹那が飛んだの、俺のせいなのかな……」 「バカ言ってんな」  即座に否定して貰っても、口に出してしまった自分の言葉がずしんと心に突き刺さった。  きっと俺のせいだ。

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