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第4話

 手術を終えた刹那は目を覚まさないままに、薬で強制的に眠らされた。 「朔実、帰ったら荷物をまとめろ」  病院の玄関を出た所で、駐車場に向かう兄貴と駅に向かう俺はそれぞれの方向に行きかけて、立ち止まった。  空はいつの間にか暗くなっていて、真夏の夜風が肌に鬱陶しくまとわりつく。 「どうして」 「お前達が住んでいるアパートを引き払う」  えっ。  そんな事をされたら刹那と俺の住む場所が無くなってしまう。 「待って、まだ刹那と決まったわけじゃ無い。もしかしたら今夜、帰って来るかも知れないし」 「朔実、お前は本当にそう思ってるのか」  眼鏡のレンズに外灯の光が反射して、兄貴がずいぶんと冷たく見える。いや、この人は冷たい人だった。年が離れ過ぎていたから、俺にはよく分かっていなかっただけ。 「思ってるよ」 「そうか。とにかく荷物をまとめておけ、来月の家賃を払う日になったら、お前にも分かる」  さっさと駐車場に向かう背中に言っても仕方の無い事だと諦めて、俺は駅に向かった。  あれが刹那だよと言われても、自分で確信が持てない事を信じられる訳が無い。信じられないから信じない。  俺たちの部屋は洋室と和室の六畳間がそれぞれ一つずつと、キッチン、トイレ、風呂付きの古いアパートだ。  病院から帰宅してその部屋の玄関を開けると、今朝自分が出て来たままの部屋があった。刹那はいつもまだ帰っていない時間だし、不思議じゃ無いと、俺は冷蔵庫を開けた。ろくな物が入っていなくて、買い物をして来るのを忘れたからあり合わせでいいか。  それから風呂に入って、出てもまだ刹那は帰って来ない。キッチンのテーブルに用意した晩御飯が、置いたまま冷えている。  窓の外からファン……と車がクラクションを鳴らす音が聞こえて、大きな話し声がする。どの部屋か分からないけれど、同じアパートの住民が酔って帰って来たらしい。スマホの時計を見ればもうすぐ深夜の十二時で、俺はイヤホンを挿して音楽で耳を塞いだ。  刹那が帰って来ない。  たったそれだけの事で不安になる。刹那は仕事の他にもバイトをしていたから遅い時だってあって、別に帰って来ないからって心配するような年でもないし、俺はいつも平気で寝ていたのに。  刹那が帰って来ない。  もしかしたら、病院に居るあの人は、本当に刹那なのかも知れない。  たまらずに立ち上がって、隣の部屋のドアを開けた。その中を見た瞬間、どんっと胸に突風が突き抜けたような衝撃を受けて、ドアに手をかけたままの姿勢で動けなくなる。  六畳のフローリングの部屋。そこはガランとした空き部屋になっていて、綺麗に何も無かった。 「う、そ……」  部屋の真ん中にダンボール箱が一つ。他には布団もカーテンすらも無い。覚悟を決めて全て片付けて出て行った、がらんどうな部屋。  嘘だ。  信じろと言うのか、何も無いこの部屋で。いつまで待っても帰って来ない事で、信じろと言うのか、病院のあの人が刹那だと。  俺を置いて逝ったと、信じろと言うのか。嘘だ、信じたく無い、信じられない、どうしたらいいか分からない。嘘だ。俺たちは二人で生きて来たのに、離れられ無いのに、嘘だ。嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ。  翌朝、眠れないままに病院に行くと、廊下からガラス越しに見た昨日のベッドにあの人が寝ている。  今日はMCUに入れて貰えたけれど、それは分厚いシートと包帯にぐるぐる巻きにされてベッドで眠る人のすぐ側で膝を抱えるだけとなって、俺に現実を突きつける。  これは刹那だ。  どんな姿になぅても、一緒に育って、ずっと一緒に暮らし来た兄を、すぐ隣に見てしまえば間違えようも無い。もう違うと否定も出来ない。  刹那だ。  待っても帰って来ない刹那は、ここに居た。 「滝川君、お兄さん大丈夫よ」  何時間も同じ姿勢で押し黙ったままの俺に、処置をしに来た看護師が声をかけてくれた。  何がどう大丈夫なのだろう。 「信じてあげましょう」  適当な言葉だ。  信じてどうなるんだ。シューシュー音を立てる呼吸器が無ければ息も出来ないのに。 「どういう状態で、いつ起きるのか教えて下さい」  機材のデータグラフを取る看護師が、チラリと俺を見る。手にしているそのグラフにどんな生命の可能性が有るのか知りたいのに、看護師はただ大丈夫と言うだけで何も教えてくれずに立ち去った。  誰が来ても同じで、余計な事は言わずにさっさとやる事をやって去って行く。  こんな事を三日も繰り返して、もう諦めた。  スタッフの人達は聞いても答えてはくれない。余計な事を言って、あぁ言った、こう言ったと後から問題になるのを回避してる。  だから俺は、眠る刹那の横でただ黙って膝を抱えるしか出来ない。  何も分からないまま、生きるか死ぬかも分からないままにずっとずっと……。 「滝川君、少しは食べれてる?」  いつものように処置に来たスタッフに、いつもと違う言葉をかけられても、俺は抱えた膝に伏せたままの顔を上げなかった。  こんな状況今日で食えるわけ無い。 「少しは食べて寝ないと、君が参っちゃうよ」  うるさい。  何を聞いても答えてくれないくせに、説教だけはするのか。俺の事なんか気にせず刹那を生き返らせる事に専念しろよ。腹が立つ。それとも答えないのは可能性が無いからなのか、だったら尚更腹が立つ。  知りたい事の一つも教えてくれずに、大丈夫、大丈夫と繰り返すだけなら俺に関わるな、俺に触るな、俺に話しかけるな。  何もかもが気に入らない。 「ねぇ、滝川君」 「うるさい」  椅子から立ち上がりながら感情に任せた眼差しを向けると、俺より少し年上に見える女性看護師がビクッと怯えたのが空気を伝わって来て、まずいと思った。  俺がスタッフの機嫌を損ねたら、刹那を雑に扱われるかも知れない。人当たりのいい奴でいないと、刹那が。  謝ろうと思ったのに、すうっと視界が暗くなって、俺は立ち上がったばかりの椅子の背もたれを手で探る。  やばい、立ちくらみだ。  ごめんなさいと言う言葉が出ないままに、どんどん視界が暗くなって行く。  俺の失態はここでは刹那に返るから、俺がちゃんとしないと……。  ごめんなさい、ごめんなさい。  いい子で居るから、何でもするから、だから神様、刹那を連れて行かないで下さい。

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