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第6話
ふっと目が覚めた時、ぼんやりした視界に石膏ボードの白い天井と周りを囲むベージュのカーテンが見えた。
無意識に寝返りを打とうとした所を、待ってと男の柔かな声に止められる。
「起きた?ベッドが狭いんだ。落ちるから待って」
落ちる?
寝ぼけ眼で自分が横になっている場所を確認すると、なるほど狭い。
俺は患者を横にしたまま移動するベッド、ストレッチャーに寝かせられていた。横幅は一人分しかないのに、高さだけは有る。落ちないように気をつけながら寝返りを打つと、鼻筋と目頭の間の窪みにくすぐったい何かが流れて、指で擦れば濡れている。
「君は寝ながら泣いて謝るんだな。どんな夢見てたの」
指が目尻に触れて、そのまま頬に大きな掌が当てられる。
温かい手……。
すぐ側の椅子に白衣の男性が座っていて、ただ薄い笑みを唇に浮かべながら俺を見ていた。
あー、この人、どこかで見たなぁと、ぼんやり思った。
どこでだったかな、柔らかな空気感で目が優しい人。
考えているうちに彼の手が頬から横にずれて、後ろに向かって頭を撫でてくれる。誰かに頭を撫でられたのなんか子供の時以来で、穏やかな手つきがとても心地いい。思わず擦り寄ってまた寝そうになった時、じっと見つめられている気配にはっとした。
なにやってんだ、俺は。
「すみません、俺、寝ぼけた」
「疲れてるんだよ、仕方ない」
恥ずかしい。知らない人に寝ぼけて甘えるとか子供っぽい奴と思われそう。むしろ自分でキモイ。
あー、最悪。
恥ずかしさで自滅している俺に、ここは空いている診察室だと彼が教えてくれた。
「MCUで倒れたみたいだね。あそこは専門だから追い出されて、ここは病棟の診察室。また迷子になっちゃうね」
思い出した。初日に迷子になった時に助けてくれた人だ。名前を聞いたのに覚えて無い。
視線を彷徨わせる俺に察したのか、彼は笑ってPTの卯月ですと、もう一度自己紹介をしてくれた。
「PT?」
「簡単に言えばリハビリを担当する係」
まるで分からない。
「聞いたよ、お兄さんの事。あの時は知らなくて、ごめんね」
ふらつく頭を押さえながら上半身を起き上がらせた俺の肩を、卯月さんが軽く支えてくれる。
「急に起き上がるとクラクラしちゃうから」
「MCUに戻らないと」
「今日は家に帰った方がいいと思うよ」
赤の他人に付き添いをやめろと言われて、瞬間的にムカッと来る。刹那に関する事を白衣を着ている人に言われたくない。
だけど肩に置かれたままの手がじんわり心地良くて、今の自分は過敏過ぎると思い直した。神経質になり過ぎてるから少しの事でカリカリして、俺が悪い。
「ここで無理したらお兄さんの側に居られなくなる。休める時に休んだ方がいいよ」
刹那の側に居られなくなる?
首を傾げて卯月さんを見詰めると、カチッと目が合った。卯月さんは瞬きで一呼吸置いてから、あぁとゆっくり頷く。
「お兄さんは怪我や治療で体力と抵抗力がとても弱くなっている。朔実君が風邪でもひいたら、治療の妨げになると判断されて入室拒否になるよ」
それは知らなかった。MCUのスタッフはそんな事も教えてくれなくて、もし来るなと言われたらブチ切れる所だった。
あそこは嫌いだ。いつも不安ばかりで苦しい。
違う。
常識は誰も教えてくれない。そんな事すら知らない俺がバカなんだ。
暗闇に押しつぶされて行くような感覚の中で、温かな手がもう一度俺の頭を撫でてから、離れて行く。
「あ……」
無くなった温もりを思わず視線で追ってしまった俺に、卯月さんはにっこり微笑んでから、そうか、そうかと、俺の頭をぐりぐり撫で回す。
「可愛いな、これな」
は?
「ごめんごめん、もうそんな年じゃ無いか。じゃあ家まで送ってくよ」
「え、いいです。電車で帰れます」
「また迷子になるよ」
そんなに間抜けじゃない。あの時は初めての場所で気が動転して迷子になったけど、数日詰めているうちに病院の造りが分かって来た。
俺は頑なに首を横に振った。
帰宅すると、玄関のドアを開けた瞬間にどっと疲れが押し寄せて来て、部屋の匂いは刹那が居た時と同じなのに、まるで違う部屋みたいに感じる。
重い身体を引きずって行った刹那の部屋は、先日見たままのがらんどうの部屋。カーテンすらない窓から、月の冴えた光がいっぱいに差し込んでいる。フローリングの真ん中にはダンボール箱が一つ。それ以外何も無い。
「ああ……」
二度と戻らない覚悟の自殺。
そのうちにひょっこり帰って来て、良かった人違いだったのかって笑って、驚かすなよって……。
なのにこの部屋は。
震える手でダンボール箱を開けると、中身は俺にもサイズの合う服だった。バカじゃないのかと泣きそうになる。
こんなの残されて、もったい無いから着ろって言うのか、バカ刹那。子供の頃から人の情に本当に無頓着な人で、使えるかどうかが先に来る骨の髄まで貧乏体質。
芸能人になれそうな綺麗な顔立ちをしているくせに、中学時代の丈の足りない学校ジャージを平気で着ていて、オカンかよというツッコミを何度堪えたか。
俺の同級生女子とか、ちょっと見かけただけの刹那をきゃーきゃー言ってて、自慢の兄ちゃんだ……。
思い出してちょっとだけ笑ったけど、こんなのより刹那が居てくれた方が。服が刹那の代わりになるのかよ。
俺は涙を堪えながら、このスーツはきっと高校を卒業してから使えって意味で、こっちのニットは去年よく着ていたなと、残された服を一枚一枚箱から出して行く。
そして最後には、ダンボールの一番下に刹那と俺の名義の通帳をそれぞれ一冊ずつを見つけた。
高卒の給料と高校生のバイトで暮らしていた。毎月ギリギリの生活で金なんか有るはずも無いなのに、幾らかずつでも貯めていたのか、あの人は。
開くと、刹那名義の方は給料振込から光熱費の引き落としに使っていたようで、残高は幾らも無い。そんなもんだろうと思いながら自分名義の通帳を開いた時、俺は目を疑った。
並ぶゼロの数を数えて、いや、間違いだろうと三回見直して。
あり得ない。
もう一度講座の名義を確認してまた残金を見直して。その通帳には一千万もの大金が入っていた。
収入を超えたこんな大金、どうやったって貯まるはずが無い。いったいどこから……。
ふと思い付いて記帳の一番最初を見れば、記載は繰り越された数年前の物で、いつからこの金があったのか辿れない。これはいったい……なに?
刹那はどうやって、どこからこの金を用意したのだろう。
あり得ない大金にどっと汗が吹き出て来る。
刹那が飛んだ理由は、もしかして。
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