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第8話
事故から五日、治療のため下げていた刹那の体温を戻す事になった。
「もう大丈夫なの?いつ起きるの?」
カンファレンス室から出て来た兄貴に、廊下で待っていた俺は詰め寄った。ワイシャツの袖をめくって腕時計を確認した兄貴は、次に眼鏡の奥の切れ長の目を俺に向ける。
「内臓への負担も少なくて、結果は大分いいらしい。数日かけて少しずつ体温を戻して行くからすぐには起きない」
「じゃあ助かったの?」
詰め寄る俺に、兄貴はためらいながらも頷いた。
「あぁ……」
カクンと膝の力が抜けて、俺は廊下の壁に背中で寄りかかる。
助かった……。
刹那は死なない、助かったんだ。助かった。
身体の内側に一つ、温かな炎が灯ったようで、何かが俺の中に満ちて来る。
助かった。刹那は助かった。
「この間に朔実、引越しの準備をして俺の所に来い」
「え……」
それは俺に兄貴のアパートに移れという意味だ。だけどそうしたら刹那が治った時、刹那はどこに帰ればいいの。二人で暮らしているアパートを引き払ったら刹那の帰る場所が無くなる。
「わがまま言うなよ、分かるだろ」
「でも刹那が起きる時にそばにいないと」
「テレビみたいにパッと目が覚めるわけじゃ無いんだ、錯乱して暴れる事もあるらしい。その時にお前が居ても邪魔になるだろ。朔実にはこの後付き添って貰わなきゃならないから、今しか動けないと思え」
離れてしまったら刹那がちゃんと起きるのか分からないのに、離れたく無い。ずっと待ってたのに、ずっとずっとそばで待ってたのに。これはわがままなのだろうか。
そう思った時、見つけた貯金の一千万が頭をよぎった。
結局、俺にはアパートの家賃が払えないから部屋を維持して行けない。だけどあの一千万を使えば。
いや、出所が分からない金は使えない。もしあの金のせいで誰かにビルから突き落とされたんだとしたら。警察に行った方がいいのかと思うけど、刹那が完全潔白だと分かるまでは行けない。何か犯罪に絡んでいたのなら……刹那という人を考えた時、残念ながら悪い事はしないと言い切れるだけの誠実さの欠片も無い。
「分かった」
とりあえず兄貴の所に行く事に同意して、俺は引っ越し準備をする事にした。
張り出した暗雲に日のかげった病院の門は、生暖かい夏の風が吹いていた。頭上で大きな木がサワサワと緑の葉を揺らし、遠く雷の音がする。
一雨来るかも知れない。
「朔実くん?」
病院の玄関を出た所で空を見上げていたら後ろから名前を呼ばれて、振り返ると卯月さんが居た。もう仕事は終わったのだろうか、黒いカットソーに薄茶のパンツ姿で、白衣じゃない。
「雷が来るな」
隣に並んで俺と同じように空を見上げた卯月さんが言った。
「お兄さん、どう?」
聞かれて、俺は黙ったままただ頷く。
「朔実くんはちゃんと食べてる?」
そんな事より、卯月さんだったら刹那がどうやって回復して行くのか教えてくれるだろうか。兄貴はテレビとは違うと言ったけど、じゃあ実際どうなの。俺には何が出来るの。
「朔実くんは眠れてる?元からそんなに無口な方?昨日も思ったけど、ほとんど喋らないね。ごめん、俺は嫌われたかな」
言われてはっとした。
「すみません、態度悪くてごめんなさい。そうじゃないんです」
誰かと口をきく事が何だかおっくうで。兄貴となら喋れるけど、自分でも気付かないままにほとんど喋らなくなっていた。
「いや、こっちこそごめん。不安になるなって方が無理だけど、自分の状態も把握しておいた方がいい。この先ドツボにはまるよ」
その時ポツリと大粒の雨が落ちて来て、グレイのアスファルトの上に黒い染みがパラパラと出来て行く。音を立てて降り出した大粒の雨は、焼けたアスファルトの匂いを立ち登らせながらみるみる地面を濡らして行く。
「来て、車で話そうか。ずぶ濡れになる」
職員用の駐車場は病院の門を出で道路の反対側にあった。立体駐車場になっていて、五階に停めてある卯月さんの車に辿り着いた時には、鉄筋コンクリートを土砂降りが打ち付ける強い音が響いていた。
「そんなに濡れなくて良かった。乗って」
「いえ、俺は……」
「こんなんじゃ落ち着かなくて話も出来ないだろ」
強風に煽られた雨がコンクリにザーッと強く打ち付けて、卯月さんの声をかき消す。俺が言われるままに助手席に乗ると、車のエンジンがかけられた。
「どこ行く?」
「え?」
「冗談だよ、お兄さんの所にちゃんと返してやるよ」
運転席から俺を見てクスクス笑ってる。
密室の狭い車内は、すぐに卯月さんが発する穏やかな空気に満ちた。
湿った前髪を手で搔き上げながら斜めの視線で俺を見て、それから笑っていた目がスッと真剣になる。
「MCUから出るお兄さんの担当チームが決まった。俺はリハビリを担当する」
頭はねと、卯月さんが自分の頭を指先でトントンと叩いた。
「どれだけ早くリハビリを始めるかで回復が違うんだ」
回復。
「刹那は治りますか」
卯月さんは運転席から、ちょっと待ってと俺を制する。
「俺は医者じゃないから、朔実君に軽い事は言えない。君はお兄さんが元のお兄さんに戻る事を治ると言うだろう。それは俺には分からない」
「そ、んな……」
ガツンと頭を殴られて、そのまま崖から突き落とされたような気がして、目の前が揺れた。
病院の人にそう言われてしまうのは、治らないって事なんじゃないだろうか。いや、命が助かっただけでも良かった。死ぬかも知れないドス黒い不安の中に居た事を思えば、助かっただけでも良かった。
「聞け」
運転席から伸びて来た片手が俺の左肩に触れる。そうするといつもの温かな体温が伝わって来て、卯月さんの手はいつも温かい。
「一度死滅した脳細胞は再生しない。他の部分が欠けた機能を補うよう訓練するんだ。お兄さんは左脳の半分を失っている」
そんな事は聞いていない。
真剣な眼差しで真っ直ぐに俺の目を射抜いて来る卯月さんの目を、俺はまぶたを見開いて見返した。
いや、聞いていた。最初に、まだ刹那と認められなかった時に高坂先生が見せてくれた何枚もの画像は、白と黒でそうなっていた。
「戦うのは本人だけじゃ無くて、家族もだ。分からない事は何でも聞いて、内側にこもらないで、俺を頼って」
左脳の半分が死滅している。
そんなんで生きて行けるのか。前みたいにまた……。
同じ兄弟でもバカな俺と違って、刹那は恐ろしく頭のいい人だった。俺が居たから大学進学はせずに高卒で就職したけれど、頭の回転の早さと度胸の良さは絶対敵わない。俺なんかよりもずっとずっと優秀で、俺なんかよりもずっとずっと。
なのに、その刹那の脳細胞が死滅している。
「朔実君」
強い声で呼ばれて、卯月さんの瞳を見つめたまま自分の考えに陥っていた俺は、はっとした。
温かな手が慎重に肩から頭に移動して、俺の様子を伺いながらゆっくりゆっくり撫でて来る。これから担当する重症患者の身内だからか、向けられた表情がとても固い。
「大丈夫です」
本当は大丈夫じゃない。
命が助かったと喜んだけど、この先どうなるのだろう。ちゃんと治るのだろうか。前みたいにまた二人で暮らせるのだろうか。格好良くて頭も良い、自慢の兄ちゃんに戻るのだろうか。戻らなかったらどうしよう。戻らなかったらどうなるのだろう。
震えが来る。
込み上げて来る不安に胸が悪くなって、膝に置いた自分の手が震えてる。
「ごめんね、キツかったな」
「いえ。ちゃんと教えてくれて、ありがとうございます。兄をよろしくお願いします」
それが仕事だと頷いた卯月さんが、フロントガラスの外に視線を移した。
そこにはコンクリートの間から真っ暗な空が見えて、白く見える土砂降りの雨が、風に揺れるカーテンのドレープみたいに波打ちながら降り続いている。
この雨はいつまで降るのだろう。永遠にやまない気がした。
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