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第9話

   その年の冬は、光輝が高校受験を迎えていた。当時小学二年だった俺にはよく分からなかったけど、家を出て遠くの学校の寮に入るらしい。  そんなある日の晩、祖父と祖母はもう自分の寝室で寝てしまった後の事だ。  この時間はいつも仕事で遅い母が俺たちと過ごす短く幸せな時間で、刹那と二人で取った遅い夕食を片付け終わった母が居間のコタツに腰を下ろす。膝に俺を乗せ、傍に刹那の髪を撫でながら語らう、この家の中で唯一の安らぎの時間。  そんな団欒の中で、二階の自分の部屋から降りて来た光輝が思いつめた顔で母の前に正座した。 「親父と離婚して、刹那を連れて逃げて欲しい」  手足ばかりが長い成長期特有の少年の背中が頭を下げる事で丸まり、それは母のそばに居た俺たちにも向けられていた。  突然の光輝の行動に意味が分からなくて、俺が母の膝で振り仰いた視線の先では、愕然とした白い顔が土下座する自分の息子を見ていた。 「俺が居なくなったら誰も刹那をかばえ無い。俺だってちゃんと守ってやれたとは思えない。俺は、もっと早く母さんが決断する事だったと思う」  離婚とか、逃げるとか。  同級生に親の離婚した子が居て何と無く意味は分かるけど、元々父の気配など無いのでうちにはなんの意味が有るか分からない。 「……お爺さんとお婆さんは誰が養うの。あんただって刹那だって朔実だって、みんな」 「母さんには感謝してる。我慢して出て行かなかった事も、家族に尽くしてくれて、俺ら母さんのおかげで生きてられるのも分かってる。だけど刹那を、刹那だけでも連れて出て欲しい」  刹那だけ連れて出る。  俺が真っ先に悟ったのは自分が置いて行かれる事で、一気に湧き上がった真っ黒な恐怖に俺は泣き出した。 「やだよーっ!そんなのやだ。刹那が悪いんだ。刹那がダメだからばぁちゃんが怒るのに、やだよっ」  俺はいい子でいたのに。  それが間違っていて、やっぱり悪い子だったから置いて行かれるのかと、恐ろしい程の恐怖に身がすくむ。  置いて行かれたく無い、お母さんにだけは捨てられたくない。  なのに言い終わらないうちに光輝にひっぱたかれて、パァンと耳のそばでした音にびっくりして涙もひっこむ。 「刹那はダメでも無いし悪くも無い。ばあちゃんが間違ってるんだ。俺はお前も可哀想だと思うよ、朔実。そんな事も分からないで言いなりで、お前はバカだ」  ショックだった。  殴られた事も、バカだと言われた事も。積み上げられた嘘の壁が壊れて、真実がさらけ出させる。  もう隠して置けない。俺がバカな子だって事を。 「母さんはこれでも間違って無いと思うかよ。刹那も朔実もこんなんで、誰が守るんだ。待っても父さんはとっくに帰って来ない、母さんの人生だけど、これからを見てください。刹那と朔実を見て下さい」  母は震えていた。  真っ青になってぶるぶる震えるていた。  きっと光輝は進学先を決める時から考えていたのだろう。俺たちの事を考えて出した答えで、中学生の少年にそれ以上の何が出来たのか。  俺たち兄弟の中で一番真っ直ぐで真っ当なのが光輝であり、しかしだから、大人を知らなかった。  父という人物を知らな過ぎた。  狡猾で冷酷で利己的、そして強欲。それが父だ。  光輝の持ちかけで離婚に合意した父は、刹那の親権と養育権だけは絶対に譲らないと主張した。  父が一番手元に残したがったのは刹那で、母に一人で出て行くのが嫌なら朔実をくれてやるから刹那は置いて行けと言い張った。  当時の俺の中に父という存在感はまるで無く、何の仕事をしているのかすら知らなかったのに、朔実をくれてやるから刹那を置いて出て行けと言い放つ父を見た時、俺は自分が要らない子なんだなと悟った。  勝手なもので自分にとっても父は必要無かったはずなのに、相手から要らないと言われると捨てられた気になる。  そしてその事実は今まで祖母が刹那を罵っていた言葉で俺を蝕んだ。  バカだ、ダメだ、ノロマだと祖母が刹那に言う度に自分が言われたような気がして、そんな言葉をどこ吹く風で聞き流して時に祖母を睨みつけて薄暗く笑う刹那よりも、俺はダメな子供だと思い込んだ。  劣等感は強く植え付けられる。  父も母も光輝も、みんな俺を置いて出で行ってしまうのは、刹那ばかりで誰も見てくれないのは、俺がダメな子だからなんだろう。

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