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第10話
翌日、光輝に荷造りが済んだ事をメールで伝えると、病院に持って行く物のリストが返信されて来た。
メールの一番下に数字があって、一般病棟に移った刹那の部屋番号だ。
メールで教えて貰った部屋番号をステーションの一番近くに見つけてドアを開けると、中に居たスーツ姿の背中が二人、ぱっと俺を振り返った。見知らぬ人に部屋を間違えたかなと、俺は焦る。
「あの……」
「朔実、刹那の務め先の方だよ。少し外してくれ」
病室の奥に兄貴が居て、良かった、間違えて無い。チラリとベッドの方を見たけど、カーテンが引かれていて刹那の姿は見え無かった。
職場の人の面会では仕方ないので、俺は荷物だけ置いて病室を出た。
だけど、助かった。
刹那は助かった。
嬉しくて、嬉しくて、見渡す景色は辛気臭い病院でも全てが輝いて見える。嬉しくて、泣きたい程嬉しくて、早くそばに行きたくて。ずっと抱えていた重い何かがすっかり抜け落ちた気がして。
やがて廊下に出て来たさっきの二人を見かけて、やっと刹那に会えると病室へ急ぐと、すれ違い様に彼らの会話が耳に飛び込んで来た。
「あれじゃダメですねぇ」
「そう言うなよ。まだ二十二だろ、持ち直すかも知れない」
「長引くのも厄介ってヤツですかね」
信じられない。殴っていいだろうか。
もしかして。
俺はバッと遠ざかるスーツの背中を振り返る。
彼らはあのお金に絡んでいて、刹那の様子を探りに来たのかも知れない。一千万なんて大金、刹那の行動範囲の中で扱っているのはきっと会社だけだ。
横領?まさかそんな。
刹那を突き落とした犯人が居るなら許せない。けど……刹那はそんな事しないと言い切れるだけの自信が無い。俺にとってはいい兄でも、世間一般から見ると犯罪の一つや二つ平気でやるとは言いたく無いが、やらないとも言えないのが刹那だ。どうしたらいい。
「ああ、朔実。悪かったな」
病室に行くと、兄貴が俺を見てふうっと息を吐いた。一つ仕事を終えた後のような開放感の混ざったため息で、俺はベッドを伺う。
「刹那は?」
「大丈夫だ。意識もだいぶ戻ってる。まだ完全じゃないけどな」
ベッドには重装備だった冷却シートが無くなっていて、ブルーのパジャマを着ている刹那が居た。
頭にガーゼとそれを覆うネット。顔もガーゼが当てられていて、更に喉と肺に管と、骨折部分はギプスで固められている。
「さっき話をしたんだけど、刹那はすぐには解雇にならないらしい。でかい会社に入ってくれてて良かったよ。」
「そう。刹那に触っても平気?」
「ああ。気を付けてくれ、骨折してたり管入ってるから」
怪我だらけのボロボロの姿でも、刹那だ。おっかなビックリむくんだ指先に触れてみる。温かい。俺と同じ体温。生きている。刹那はちゃんと生きている。
「刹那……」
視界が滲んで刹那が見えなくなる。
ずっと見ていたいのに、眠る刹那が見えなくなる。
「朔実、俺は仕事に戻るから付き添い頼むな」
「うん」
助かった。刹那は生きてここに居る。
そして気付けば、刹那はパチリと、その目を開けていた。
「刹那、俺分かる?朔実だよ」
よく見えるように慌てて顔を近付けて、頷いて貰えると俺は思った。
「良かった。本当に良かった。帰ろう。兄貴が引っ越せって言うんだ。だから早く良くなって一緒に帰ろう」
頷いてくれるのをすがる気持ちで願って、意識は戻ってるはずだ。だけど刹那はただまぶたを開けて天井を見ているだけで、何の反応も示さなかった。
反応が無い。
どうして。
硝子玉みたいな黒い瞳が鈍く光り、ただ天井を見上げているだけ。身を乗り出して上から顔を覗き込めば、瞳には確かに俺の姿が映るのに、何の反応も無い。見えていない。どうして。
その夕方、刹那は突然叫び声を上げた。
喉に開けられた穴のせいでかすれた声にならない音を張り上げ、動かない身体を強張らせて呻き出した。
「刹那?どうしたの」
すぐにベッドに駆け寄り体を押さえようとしたけど、骨折ばかりでどこを触ったらいいか分からない。
頭は手術してるから撫でられない。
わずかに動く体を強張らせて口からよだれを垂らしうーうー呻く刹那はまるで手負いの獣のよう。
「落ち着いて、怪我が酷くなっちゃうよっ」
俺はすぐにナースコールを押して刹那の上に覆い被さった。でも押さえつける事なんかできない。
「んーっ、あーっ」
耳元で刹那が叫んで、動かない体を必死で揺すろうとしていた。
なんだこれは。
なんなんだこれは。これじゃあまるで人間じゃ無いみたいで、どうなってるんだ。刹那はどうしてしまったの。
うーうーという呻き声は刹那が疲れて眠るまで続き、俺は病室の隅で恐怖に膝を抱えた。怖いのに、とても怖くてたまらないのにどうしても刹那のそばを離れられなくて。
その晩俺は膝を抱えたまま病室に泊まった。分からない事が大きな不安になって押し寄せて、深まる夜の中でただ刹那に取り付けられた機械の音だけを聞いて、時々発作のように暴れ出す刹那の横で、恐怖の夜を明かした。
朝になって回診に来た高坂先生にその事を告げると、三十代後半の医師は信じられない事に大丈夫とアッサリ笑う。
「睡眠薬投与をやめた時からその症状はありました。錯乱です。人によってはそうなる事もありますから大丈夫です。」
これが大丈夫なんて、なんで言えるんだ。大丈夫、大丈夫。本当にここの奴らはそれしか言わない。医者まで大丈夫。何がどう大丈夫なんだよ。
「いつまで続くんですか」
「それは分かりません。錯乱しない方もいれば、症状が出てもピタリと治まる方も居ますし、逆に稀にですが退院してからそうなる場合も有ります」
なんだそれは。
それでなんで大丈夫なんだ。所詮は他人事、そういう事か。会社の人みたいに長引くと厄介と笑うのか。
信用出来ない。医者も看護師も、他人は当てに出来ない。
俺は怒りをぐっと堪えて飲み込む。
悔しい。
腹が立って腹が立って、だけど仕方無い。この先生に逆らったら刹那がちゃんと診て貰え無いかも知れない。
「……ありがとうございました」
回診を終えて、看護師と一緒に部屋を出て行く白衣の後ろ姿にお礼を言った時、握りしめた手のひらに爪が食い込んで痛かった。
誰も分かってくれない。
みんな出て行って二人だけになった病室で刹那を見ると、ガラス玉みたいな瞳が白い天井をただ写している。
「刹那……」
本当に治るの。元に戻るの。なんで刹那がこんな目に合わなければならないの。誰より格好良くて自慢の兄だった。なんでその刹那が。
涙が滲んで視界がぶれて、人では無いような有様になってしまった刹那と二人、孤独と見えない恐怖に途方に暮れる。
それからの事は全てが気に入らなかった。
看護師は呼べばすぐ来てくれて必要な事はやってくれるけど、本音はどうせ何やっても分からないだろうと思われてるような気がして、もう誰にも刹那に触られたくない。
付き添う俺に親しげに話しかけてくれる人もいたけど、そんなのむしろガキだとバカにしてるように思えて、どうせ何も教えてくれないのならと拒絶した。
気に入らない。気に入らない。
俺はともかく、刹那を物のように扱うのが気に入らない。
お前らなんかよりよっぽど優秀な人だったのに、なんでこんな目に合わなきゃならない。なんでそんな目で見られなきゃならない。
その晩もその次の晩も刹那は恐怖を煽る唸りを上げ、だけど昼間は嘘のように大人しく寝ているだけだ。名前を呼ぶと返事代わりに瞬きをする事も有れば、瞳が俺の動きを追う事もある。かと思えば全く反応の無い日もあって、疲れた。
いったい何時になったら治るのか。
もう、疲れた。
医者も看護師も頼りにならない。いったいどうすればいいの。
もう、疲れた。
「刹那さんに触らせないんだって?」
白衣の卯月さんが病室にやって来たのは、そんな時だった。
俺は刹那が誰にも触られ無いように、着替えも清拭もオムツ交換でさえも、人がやるのを見て必死で覚えて自分てやる事にした。刹那を誰の目にも見せたくない。
「うん。でもね、そうやってスタッフを遠ざけるのは良くない」
「卯月さんも俺を責めるんですか」
ずっと借りっぱなしにしている付き添い用簡易ベッドの上で、膝を抱える。
「責める?誰が朔実くんを責めるの」
「口に出してそんな事言う奴いないですよ、でもみんな思ってる」
そう言ったら、卯月さんが俺の隣に座って来て、同じように膝を抱えた。
「家族がスタッフを信用しないと、みんなが刹那さんに近付けなくなるんだよ。誰も朔実くんを責めて無い」
「嘘だよ。みんなバカにしてる」
「なんでそう思う」
「もう喋りたくない」
膝を抱えたままふいっとそっぽを向けば、卯月さんが笑う。
「大事な人がこうなってしまうと、患者と二人だけの世界を作ってしまう家族は居るよ。だから朔実くんがおかしいわけじゃない」
「何にも知らないくせに分かった風な事言う」
「知らないよ、朔実くんは何にも言わないから。だけど俺たちは敵じゃ無いんだよ。だから話してみな。ここで受け入れる事を知らないと、付き添いの方が苦しくて鬼になっちゃうんだよ」
肩に卯月さんの手が置かれて、シャツを通して伝わって来る体温に、視界が涙で滲んで行く。
「俺は……」
「うん?」
「泣きたくなんか無いんだ」
バカだな、泣いていいんだよ。
卯月さんがそう言ってくれた。
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