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第11話

 じゃあ始めようかと卯月さんが刹那のベッドを起こす。 「いきなり起こすと気分悪くなっちゃうから、少しだけね」  そう言ってリモコンを操作しながらゆっくりゆっくり上がるベッドに、刹那は分かっていないようで反応を示さない。 「朔実くん、この時コードも気をつけて」 「あ、はい」 「刹那さん、こんにちは。リハビリ担当の卯月です。少し運動しましょう」  卯月さんは俺に注意する事を教えてくれながら、刹那の肩に触れて挨拶をしてくれた。  リハビリを開始してからも同じで、何をするのか説明してから行動に移す。俺が見ていない時に勝手に触れたり、手つきが乱暴だったりは絶対に無い。  そうされると安心出来て、ほっと肩の力が抜けた気がした。 「俺ちょっと向こうで寝てていいですか」  刹那の手をマッサージしていた卯月さんは、驚いたように俺を見た。 「どうぞ」 「すみません」  足元の簡易ベッドをガラガラ押して部屋の隅に運び、寝転んだ所で卯月さんが俺を呼んだ。 「ゆっくり寝て」  なんかその声が笑っている気がした。  ※※※※※  離婚を決めてから両親は親権争いで揉めていたけれど、普段の生活の中に揉めている本人達が居ないのだから、日常には何の変化も無かった。  光輝の受験勉強は順調なようで、思えば光輝も必死だったのだろう。寮の有る学校に受かれば、一番先にこの家を逃げ出せるのだから。  そしてそれは、受験に受かった光輝が荷造りを始めた頃にあっけなく訪れた。  その晩、いつものように祖父と祖母、それに光輝と俺の四人で夕食を食べていた時の事だ。  冬の名残の牡丹雪が降る寒い晩で、刹那は夕食を共にすることは許されないから、一人で二階の自室に居たのだと思う。  一番初めに食べ終わった祖母がお茶を入れようと立ち上がり、二歩三歩と歩いて突然そのままぐらりと畳の上にうずくまった。 「ばぁちゃん?」  びっくりした光輝が祖母を呼び、それから祖父を見る。祖母は頭を両手で抱えて唸っていた。 「光輝、刹那呼んで来い。それから救急車だ」  普段は寡黙で取り乱す事など無い祖父が短く叫んで、一気に緊張感が走った。  頭を抱えながらうめく祖母と、どうする事も出来ずに見下ろす祖父と。俺は何が起こったのか分からず、異様な空気に凍り付いていた。  バタバタと階段を駆け下りて来る二人分の足音が聞こえて、光輝が刹那を連れて戻って来た。 「どうしたの」 「……水、せつ、水……」  倒れた祖母が畳の上でうめきながら呼んだのは、刹那の名前だった。 「……冷たい水、刹那、水……」  瞬時に状況を理解した刹那が、表情を固まらせて台所に向かおうとするのを、祖父が止める。 「だめだ、死に水になるぞ」  死に水。  それが何なのか俺には分からなかったけれど、呻く祖母に死と言う言葉をすぐそこに感じて、ただ怖い。  そこだ、すぐ隣り。  頭を抱えて呻く祖母の、すぐその頭上。 「……水、刹那、せつ、刹那……」  刹那、刹那、刹那、刹那。  死の瀬戸際に呼ぶ名前が一欠片も愛さないはずの孫の名前。あんなに可愛がってくれた俺の名など、祖母は一度も呼ばない。  やがて聞こえて来た救急車のサイレンの音に、祖父が光輝と一緒に外に出て行って、刹那と俺は呻く祖母を見ているよう居間に残された。  だけど怖くて、異様な様子の祖母が怖くて俺は祖父を追って外に出て行った。暗闇の中に牡丹雪がボタボタと落ちて、冷たく頬を濡らす。 「朔実は邪魔だ、向こう行ってろ」  仄かな雪灯りの中で祖父に追い払われて、家の中に戻るしか無く。  俺が家に戻った時、部屋の中は妙に静かだった。  閉じられた居間の襖、うめき声の聞こえ無い部屋。有るはずの人の気配さえ、全て無くしたような静けさ。 「……せっちゃん」  襖を開けると、外に出た時と同じように祖母が畳に横たわっていたけど、もう、うめいてはいなかった。  襖から覗く俺の方を向いて、刹那が穏やかに微笑む。  母によく似た白く美しい少年の面差しが、この時は何か別の物のように見えて俺は息を殺した。  そこに居るのはよく知る兄のはずなのに、まるで別世界の人のよう。 「救急車来た?」 「まだ。邪魔って言われて……」 「そう。じゃあばぁちゃんにの側に居てやって。もう怖く無いよ」  祖母を俺に任せた刹那は台所の方に向かう。その白い手に、祖母がいつも使っていた桜柄の湯呑み茶碗が有るのを見た。  そして祖母は救急車で運ばれて、その晩の内に親戚が集まり、翌日戻って来た祖母は遺体になっていた。  三度目の脳梗塞だった。  死に水。  人は亡くなる時に喉の乾きから水を欲しがり、与えるとコクリと逝くと聞く。根拠は医学的には無く刹那が祖母を殺したとは言えないし、それは罪じゃない。  そう、俺達はそんな事何も知らなかった。  だけど祖父が言った死に水という言葉は、目の前でもがく祖母を見ていた俺たちに深く刻み込まれ、迷い無く刹那を動かした。  それだけだ。  俺はこの事を一生口にしないと誓う。

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