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第15話
翌日、刹那の肋骨の管が抜かれて、喉の穴が塞がれた。
顔半分を覆っていたガーゼも取れて、内出血の跡も既に消えた頬は多少むくみは有るものの、身体につけられていた色々な物が無くなって楽そうに見える。
「すっげえイケメン」
卯月さんが休憩時間に様子を見に来てくれた。
「ここまで美形だと触るのも恐れ多いな。ちゃんと訓練できるかな、俺」
「何言ってんですか、俺の事はベタベタ触るくせに」
「朔実、鏡見て来いよ」
「失礼だな」
卯月さんは笑いながら、白衣のポケットを片方だけぽっこり盛り上げていた物を投げてくれる。慌ててキャッチしたそれはボールかと思ったら手に優しくて、桃だった。
「貰ったんだ。匂い嗅がせてやって。甘くて記憶に有るでしょう」
「ありがとうございます。刹那果物好きですよ」
甘く芳醇な桃の香り。夏の香り。
鼻に近付けてくんっと香りを吸い込む俺を見て、卯月さんが笑ってる。
「逆、逆。食べるのが朔実で香りは刹那さんに嗅がせるの」
「卯月さんは食べないんですか」
サイドテーブルからナイフを出したら、どれどれと手元を覗き込んでくる。
「一口ちょうだい」
「半分個しましょう」
「うわ、俺も兄弟みたい」
剥いた桃を一口サイズに切って差し出したら、あーんと口を開けて待ってるから呆れた。これじゃあどっちが上なんだか、でかい図体して子供みたいだ。
「こんな世話焼ける兄ちゃんいらねー」
わざと嫌そうに顔をしかめて、卯月さんの口に桃を一切れ放り込んだ。
美味い桃だなぁと感心しながら、卯月さんが俺の手から桃の皿を取る。そして一切れを細く潰して、出た果汁をガーゼに吸わせて刹那の唇に当てた。
「大丈夫?」
「どうかな。好きなら大丈夫と思うけど」
不意に刹那の唇が動いて、覗いた赤い舌先が唇の間を舐めた。
「あっ……」
反応した。
もっと欲しがるように唇が緩慢に動いてる。
「朔実」
皿とガーゼを渡されて、俺は頷く。
「ゆっくりね。よく潰して、実はダメね」
嬉しい。
今までも何かに反応はあったけれど、意思を感じたのは初めてで、嬉しい。
震える指でガーゼを刹那の唇に当てて、涙で見えなくなりそうな視界を瞬きでごまかす。両手のふさがっている俺のまつ毛を、卯月さんが代わりに指で拭ってくれた。
嬉しい。
どうしようも無く嬉しい。
甘い香りと甘い味と、刹那の意識はどこまで帰って来ているんだろう。
その晩から刹那は錯乱状態を脱した。
「やっと落ち着いたか」
翌日の夕方、仕事帰りに兄貴が様子を見にやって来た。もっと来て欲しいとも思うけど、薄い頬に疲労の色を見てしまえばそんな事も言えなくなる。夏休みの俺とは違う。
「怪我はどんどん治ってる。意識の方は反応の有る日と無い日が有るけど、卯月さんが良くしてくれるよ」
兄貴はネクタイを緩めながらベッド脇のパイプ椅子に座って、大分身軽になった刹那の様子に頷いている。
「俺も色々あって少し遅くなったけど、来週末お前の引越しをするから。それから進路はどう考えてる」
「調理師になろうと思ってた」
「専門学校?」
「働きながら資格取ろうかなって。だけど刹那が反対してて、進学しろって言うから」
そう。大学に行ける余裕なんかあるはずが無いのに、何故か刹那は進学しろの一点張りだった。今思えばそれはあの一千万があったからで、刹那は俺の進学費用に当てようとしていたのだと思う。
やっぱり……そんな風に先を考えていた人が自殺なんかするのだろうか。
「もしも朔実が金を心配してるなら方法は幾つか有る。奨学金の有る所に行くのもそうだけど……親父に出させるのがいいかもな」
親父と言うセリフにギクリた。そんなの今更で、もう何年も会ってない。第一刹那が命の瀬戸際に居る時でさえ呼びもしなかったのに。
「覚醒する時に錯乱するのは後遺症が重い場合が有るらしい。そうで無くても刹那はこの状態だ。朔実、俺たち二人で背負うのは無理なんだよ」
それはそうかも知れないけど、何とかならないのだろうか。
「病院に通える所に就職するから」
「病院はね、三ヶ月ごとに移らなきゃならないんだ。ここは救急指定だからもっと早いし、リハビリ専門病院を移動となると県外も考えなきゃならない」
ずっと刹那のそばには居られない。刹那から離れなきゃならない。
胸が痛くなるような焦りがわいて来て、俺はティーシャツの胸を強く握った。
どうすればいい。
それで気付いた。
金だ。
ここに来て兄貴は、俺と刹那を理由に親父から金を取ろうとしている。刹那の治療費、入院費、俺の食費、その全てが今や兄貴にかかっていて、その上進学費用までなんて無理に決まっている。だから親父から金を取って来いと俺に言ってるんだ。
だけどそんなのは本当に今更で、どうしたらいいのか。手元に一千万有る……。
俺が相談したのは卯月さんだった。
というか、相談出来る大人は卯月さんしかいない。
「それはどうかな……」
二度目に来た卯月さんの部屋で、この間と同じように夕食を二人で取りながら難しい顔をする。
「刹那さん、解雇になって無いって事は社会保険適応で基本給は入るって事だろ。高額医療請求が出来るから、給料で入院費はなんとかなると思うよ」
「入院費は大丈夫なんですか?」
「基本給が幾らかは知らないけど、わりといい会社に居たなら。ただ入院費以外にもかかるのは事実だから、問題なのはいつから障害者年金がおりるかなんだけど、解雇前に決まればそれで行けるはず」
「いつ頃になります?」
「主治医の判断になる。後遺症が確定してからの申請だから、こういう後遺症が残りましたという医師の申請書が必要なんだよ」
「高坂先生か……」
あの先生はイマイチ信用出来ない。
悪い先生じゃないと思う。ちゃんと診てくれるし、光輝にはしっかり説明してるっぽい。だけど俺には何も教えてくれなくて、大丈夫としか言わない。
「多分、刹那さんは早いと思うよ」
それはきっと、後遺症が重いので早く確定するという事なのだろう。
はぁ……と、ため息を吐いてフローリングの床に手足を投げ出して寝転んだ俺を、テーブルの下から卯月さんが足を蹴ってくる。
「それよりも、どこに引っ越すの?」
「兄貴ん所は駅で六つくらい離れた所です」
「何気に近いな。もっと遠いのかと思ってた」
「でも病院も移動させられるって」
「それは、ごめん。早いと思う。うちはどんどん急患が入って来るからベッドを開けなきゃならない」
どうしてもダメなのだろうか。
どこの病院になるか分からないなら就職先を決められないし、決めてもコロコロ移動させられたら。
「次の病院に卯月さんは居ないから、また俺はどうしたらいいか分からないや」
そういう仕組みにわがままを言っても仕方無いから、諦めて上げていた頭を下ろしたら後頭部がフローリングにごちんと激突した。
「痛い」
「バカだねぇ」
酔っ払った卯月さんがケタケタ声を立てて笑って、呑気だ。本当にこの人は呑気で、なんだかなぁ。
「どーせ卯月さんには分からないんだ」
「ふて腐れるなよ。せっかくここまでなつかせたのに、また閉じたら今度はどーしたらいいわけ?」
あ、そういえば知らないうちに……白衣の人が敵のように見えていたのに、いつの間にか卯月さんを頼ってる。
「なんかねぇ、卯月さんの雰囲気が優しいからかなぁ。病院の人はみんなそうだけど、やっぱりよそよそしい気がするから、俺のこと見捨て無いでね」
そう言ったら、卯月さんはビックリしながらも、へらりと嬉しそうに笑ってくれた。
「なんだお前、なつくと可愛いな。ツンデレかよ」
「違うよ、誰にでも尻尾振らないだけだよ」
「そーかそーか、俺には振っとけ」
フローリングの上を四つん這いで近付いて来た酔っ払いが、俺の頭を抱え込んでわしゃわしゃ撫でる。
「やめろよ、痛いよ。毛が抜ける」
「禿げても朔実なら可愛いよ」
本当この人どーしようも無い。
卯月さんから酒の匂いがして、臭いと手を払ったら逆に腕に捕まえて抱き込まれた。
「ペット。あー可愛い」
「誰がだよ」
一千万の事は、やっぱり言えなかった。
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