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第16話

 それからすぐ引っ越しの日が来て、俺は刹那と暮らしたアパートを出た。  兄貴の住まいは外壁にレンガを貼った綺麗なアパートで、どの部屋もきちんと整頓されていて余分な物が何一つ無い。祖父の質素倹約の教えか、几帳面で神経質な性分が見て取れる。  結局の所、家庭崩壊の引き金を引いて真っ先に逃げたのは兄貴で、ここ数年は会っていなかった人を兄とは思ってもすぐには懐けない。  掃除の行き届いた綺麗な部屋に、俺はこっそりため息を吐いた。 「お前、卯月さんに迷惑かけて無いか?」  荷物を運び終えてキッチンでお茶を入れている俺に、兄貴が大きな封筒を何冊か差し出して来た。  湯のみに口をつけながら中身を見ると、幾つかの病院のパンフレットで、県内の病院から県外まで複数有る。 「やっぱり転院するの?」 「仕方のない事なんだ」  世の中の仕組みは仕方ない。  出来れば県内のなるべく近い所がいいけど、パンフレットにはそれぞれの病院の特色があって、刹那の容態に合わせる必要がある。 「三ヶ月後にまた転院する事を考えると、空きが有る所にどんどん入れて貰うしか無いのかもな」 「卯月さんなら分かるかも」 「それだけど、向こうは仕事なんだから甘え過ぎるなよ」 「うん」  兄貴の様子を横目で伺うと、迷惑をかけるなという意味で特に気にしている風でも無いみたいだ。  この人は俺をどう思っているのだろう。  眼鏡をかけた神経質そうな横顔は、祖父によく似ている。 「それからお前の進路だけど、やっぱり一度親父に話して来い」 「や、それは……」 「刹那は進学しろって言ってたんだろ。朔実の事を一番見てたのは刹那だ、希望くらい叶える努力をしてやれよ」  笑う。  その間放っておいたくせに今更兄貴面で痛い所を突いて来る。爺さんそっくりだ。子供の頃、祖母を押さえられずに刹那に可哀想な思いをさせたのは爺さんで、あの人は情の無い人だった。 「まぁ、そのうち……」  曖昧に呟いて、俺はお前の部屋だと与えられた部屋に戻った。  その翌日は高坂先生から説明が有る事になっていて、カンファレンス室で俺は兄貴の隣に並んだ。 「身体の方は良好です。回復が早い。やっぱり若さですかね」  先生が笑顔を見せたのは最初だけで、横顔は直ぐに引き締まる。 「左脳の損傷範囲が広く、言語障害が出ています。これは予想された事でしたが。例えばこれが……」  高坂先生は白衣の胸ポケットに挿していたボールペンを取る。 「視覚で見て、過去の記憶からこれが何か名前を探り、声に出そうとして、実際に発声する。という事を連動して瞬時に行う事で私たちはペンと言えますが、このどこか一部にでも繋がらない場所が有ると言えない。滝川さんは声を出す事は出来ますが、このつながりが失われ、話せない」 「そんな……でも、でも昼間刹那は俺を呼んだりします」  先生は言葉を中断させて、話に割り込んだ俺を見る。 「それは、名前を呼びましたか」 「いえ、唸り声みたいな感じで……」 「そういう事です。弟さんを認識はするが名前が思い出せなくて言葉にならない。または名前は分かっても発音出来ない。もしくは認識していないのかも知れない。脳の伝達は複雑なので、現段階では分かりません」  そんな……。  それでは曖昧過ぎて何も分からない。 「喋れるようになるんですか。刹那は……兄はまた喋れるようになりますか」 「分かりません。なるともならないとも今は言えない。同時に右半身麻痺ですが、左脳を損傷した場合は右に出ます。これは……」  何も分からない。はっきりした答えが何も無い。担当医師なのにこんなにもあやふやな物なのだろうか。大丈夫と言ったのは俺に向けての単なる軽口だったのか。どの範囲までが大丈夫で、どこからが大丈夫じゃないんだろう。  大丈夫という言葉の曖昧さに俺は唇を噛む。  ◆◆◆◆◆  やがて母も光輝も出て行った家で、まだ子供だった刹那と俺と祖父の三人の暮らしが始まった。  祖父の生活パターンは誰が消えても変わらず、朝の七時に起きて朝食を取り、それからわずかばかりの畑を耕し庭の手入れをする。昼食は自分で用意していたようだけど、夕食は夜の七時に刹那が用意した物を食べて寝る。  俺はといえば母が小学校の近くにアパートを借りてくれたので、そこの鍵を貰っていつでも好きな時に行けた。でも刹那は家に祖父が居るからか、あまり行かなかった。  そのうちにアパートに知らないおじさんが来るようになって、俺もだんだんと母の所には行かなくなり、学校の用事だけ連絡するような疎遠な関係になり、月日が流れて。  寂しい。  今まで賑やかな家で大事にされて来たから、急に火が消えたような静けさは寂しくてたまらない。  父は相変わらず家には寄り付かず、俺には刹那だけになった。雨の日も風の日も、友達と喧嘩して泣いて帰った日も、いつもいつも刹那と一緒だった。  以前はたたんでタンスにしまわないと怒られた洗濯物は取り込んだまま座敷に投げられる。  一度洗濯物をたたんでしまったら刹那が凄く誉めてくれて、朔実は何でも出来るねとおだてて頭を撫でられて、その日から洗濯は俺の役目になった。  タオルも下着も全部一緒に洗濯機の中でぐるぐる回る。汚れた水の中で白いシャツがぐるぐる回る。  片付けないと怒られた祖父が読みっ放しの新聞も放置された。新聞やゴミを拾って片付けたらやっぱり刹那が凄く誉めてくれて、いつの間にかそれも俺の役目になった。  手の足りない所を後から刹那が適当に補う。  食事は刹那が買って来た物を皿に並べた。  そのうちにパックのまま出るようになったけど、そこは祖父も男の子のする事と諦めていたのか何も言わず、畑で作った野菜は収穫されないまま畑で腐って行く。  減った家族の分増えたゴミを捨てる。  すてる。  捨てる。  ステル。  そうやって月日が過ぎ、刹那は高校生になり、俺は小学六年生になった。  その前の年に高校を卒業した光輝は進学のために更に遠くへ行ってしまって、家には戻らなかった。 「出て行った子はだめだな、昔と違うから」  何をするにも、光輝、光輝だった祖父が光輝を諦めたのはいつだったか。父という息子を持ちながらそれをとっくに諦め孫に期待していたのに、手塩にかけたその孫がもう帰ってこない。  それから祖父は自分がまだ動けるうちにと、暇を見ては刹那を連れ出すようになった。  父に渡す気の無い土地を光輝へと予定していたのに、その光輝が戻らなくなって今度は刹那に託す事にしたらしい。  休日にゆっくりゆっくり歩いて行く年老いた祖父と刹那の細い背中を見送っても、俺にはもう刹那を妬む気持ちも無くなっていて、刹那のかわりに家事をする。  その頃からだったろうか、祖父はだんだんと弱って、油っぽい食事が食べられなくなった。弁当の硬いご飯を自分でおかゆにして、食べられる物だけを選んでゆっくりゆっくり食事をするようになった。  もちろん刹那は気付いていたけれど変える事は無く、やがて俺がおかゆを煮る。卵を入れて、梅干しを入れて。すると刹那はまた大袈裟に凄く褒めてくれて、米と食材を買って来る。  だけど調理は一切しない。  俺たちが食べる物もついでに作ると、どんなに下手くそでも刹那は凄く誉めてくれた。  たかがインスタントラーメン一つでも、盛り付けにこだわってみればそこを誉め、玉子焼きにハムを入れてみればそこを誉め。  いつの間にか家事の全てが俺の役目になっていたけど、しなくても刹那は何も言わない。  上手におだてて道具を揃える。  刹那に誉められたいから俺はやる。  単純な子供だったのだと思う。でも、刹那しか居なかった。刹那だけがそばに居て、抱きしめてくれたから。  俺はどんどん刹那に依存した。

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