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第18話
刹那は少しずつだけど自分で寝返りを打つようになった。食事もスプーンを左手に固定してやれば、最初の何口かは自分で口に運ぶ。だけどすぐやめてしまうし、相変わらずぼうっとしていて一言も発しない。
「いい経過だよ。一進一退を繰り返しながら進んでる」
卯月さんはそう言うけど、見ている方も一緒に一進一退で、吐きそうになる弱音を刹那の前では口にしない事で精一杯だ。
もしも刹那が元の刹那に戻ったら、飛び降りた理由を思い出すんだろうか。また死のうとするんだろうか。本当に自分で飛んだんだろうか、他の誰かが突き落としたんじゃないんだろうか。
あの一千万のせいで。
警察には言えない。もし横領だったら刹那も罪に問われる。だけど犯人が居るなら許せない。どうすればいいか身動きが取れないままに時間が過ぎて行く。
喋らない原因を探るために、言語聴覚士がりんごだのバナナだのの絵が描いてある本を広げて教えても、刹那は最初から見る気も無いようですぐにうとうとしてしまった。これでは原因以前の問題で刹那にやる気が無い。
「刹那、もうすぐ花火大会だよ。ここから見えるといいね」
返事の無い人に話しかけるのはまるで独り言みたいで、二人で居るのにさみしくて仕方ない。
「花火覚えてる?昔二人で庭から見たじゃん」
俺はノートを持って刹那の横に行き、言語聴覚の人が持っていた本を真似て下手な絵を描いて見せる。
花火を描こうと思ったけど、実際に描くと花火とか意味分からない。打ち上げ花火が花のように広がる所を描いたら、花火じゃなくて花みたいだ。
「うーん、ペンが黒いから悪いんだよな、才能が無いわけじゃ無い」
言い訳しながら描いて行くペン先を、刹那がじっと見ている。曖昧な視線は分かっているのかいないのか。
「下手とか思ってるでしょ。刹那が描けばいいじゃん。こうやって持つの、分かる?」
左手にペンを持たせてベルトで固定すると、ちゃんと持てなくて握る感じだけど、まぁいいか。
「花火描いてよ」
そう言ったら、刹那は握らされたペンをじっと見ていて、そのうちに白いノートの上に落書きを始めたから、驚いた。
「描けるじゃん、凄い」
表情一つ変えずにノートに向かい、震える線を引いて行く。
違う、真剣だ。表情が変わらないのはそう見えるだけで目の光が違う。そのうちに額に軽く汗までかいて、真剣その物だ。
ゆっくりゆっくり、時間をかけたそれはやがて不恰好な一輪の花になった。
俺だって描けない花火が花に見えるのは当たり前で、むしろ花に見える事が凄い。
「凄い。刹那すごいよ」
はふぅと大きく息を吐いて、もう寝に入った刹那は確かに回復していた。
「へぇ、凄いな」
夕方病室に来てくれた卯月さんに刹那の絵を見せた。
「俺の声、届いてるよね。こっちが俺が描いた花火で、こっちが刹那の花火。ね、そっくりでしょう」
「朔実の画力も凄いな」
「そこは触れないで」
興奮して喋る俺に、卯月さんはいつもと同じように接してくれる。
「今度ひらがなでいいから字を書かせてみて、声に出すのと書くのは違うから。それにもしかしたら刹那さん、訓練士の言うこときかないのかも知れない」
あぁ……それか。
刹那はキツイ。初対面の人など眼中にも入れない人だった。疑り深くて用心深く、計算高くて利己的。
「性格に難有りが原因かぁ。卯月さんの言うことは聞いてるよね」
「最初は分かって無かったんだと思う。最近は朔実が俺になついてるから、大丈夫と思ってるのかも知れない。何にしろ、刹那さんはお前を見てるよ」
嬉しい。
刹那の役に立っていて、刹那が俺を頼ってくれていて。あの日からの地獄のような日々が報われた気がして、うっかり泣きそうになった。
「お前本当兄ちゃん大好きだよな」
「うん。妬ける?」
照れ隠しで言ったら、卯月さんは軽く声を上げて笑ったけど、その後でポツリと小さく、少しねと呟いた。
付き合うってどういう意味?
今の俺は誰かを好きになる余裕なんか無いけど、本当にそうなんだろうか。こんなにも良くしてくれる卯月さんを、恋愛とは別の意味でとても好きなのは確かで、これが恋愛感情になる事は無いのかな。
男同士の恋愛。
具体的な意味が分からなくて答えが出ない。
「今晩アパート帰ったら、兄貴に転院先の話をしてみようかと思うんだ。兄貴も探してると思うから」
きっと決まるだろう、卯月さんが持ってるコネは魅力的だ。
その晩、キッチンでインスタントラーメンを作りながら転院先の候補の事を話すと、空きが有れば理想的だと兄貴はあっさり頷いた。
「ここ、住所見ると母さんが近い」
その言葉に、俺はラーメンを作っていた手を止める。
「母さん?」
「再婚したの知ってるだろ、この近くに住んでるはずだ」
母さんまで呼ぶとは思わなかった。
母は何年か前に、昔アパートに来ていた人と再婚していて、呼ぶなら命の瀬戸際の時だったろうに、今更かよ。
兄貴は刹那の看病を母さんに任せる気でいる。本当に自分勝手な人だと呆れたけれど、母さんが来たら刹那を取られる。嫌で俺たちを捨てた訳じゃないから、知ったらきっと刹那の看病をしたがる。
「母さんも生活が有るから、任せるのは……」
「俺らじゃ無理だろ。別に援助してくれって言ってるわけじゃない、空いてる時間に看て貰うだけだ」
「俺が通うよ、学校帰りと休みの日に」
「先を考えろ、十年後はどうだ、二十年後は。一生刹那を背負えるか。あの人は生みっぱなしでも母親なんだよ、上手く使え。それよりお前は親父に連絡は取ったのか」
「父さんと連絡する理由がない」
「調理師になりたいならそれでいいから、専門学校に行く学費を貰って来い」
「なんで、俺はそんなの」
「朔実」
兄貴は出来上がったラーメンを平然とすすって、湯気で曇った眼鏡を拭いている。
「親父には援助を頼む。俺一人で刹那とお前を養うのは無理だ。例えお前が半年後に就職しても、その半年が持たない」
やっぱり……。
卯月さんは大丈夫と言ったけど、色々出費はかさんでそれを全部兄貴が出してる。お金がかかる。兄貴は現実問題に直面してギリギリなんだ。
勝手だ勝手だと呆れても、待った無しの負担を背負っている兄貴からすれば、俺の方が甘いガキに見えるのかも知れない。
「専門学校に行きたくないならそれは構わない。が、親父を一度病院に来させないとあの人は金を出さない。何でもいいから理由をつけて会いに行って、連れて来い。お前の顔を見れば来るかも知れない」
「兄貴は会ったの?」
「あの人は知ってるんだよ、刹那の事を。噂か何かで聞いたんだろう、金を取られると思って俺から逃げ回ってる」
刹那の事を知っていて病院に来ないとか、金を出すのが嫌で兄貴を避けてるとか、そんな事は別に驚きはしない。親父はそういう人だ。
「分かった」
俺ともどうせ会いはしないだろうと、これ以上揉めないうちに頷いた。
問題は母さんだ。母さんはきっと来る。そして刹那を連れて行ってしまう。そうなったら俺は……。
「ねぇ、兄貴は刹那が本当に自殺しようとしたんだと思う?」
「何言ってんだ、今更」
美味いでも無く不味いでもなくラーメンを食べる兄貴の向かいに座ると、面差しが爺さんにそっくりだとつくづく思った。内面も似てる。
「お金が無いと刹那はどうなるの」
「……さぁ、どうかな。刹那より俺らの方が切実だけどな。金、金、金、金。やってくれたよ、刹那は」
金なら有る。
刹那が残した一千万。
それを兄貴に渡せば全て解決するかも知れない。でも十年後とかずっと先を考えたら、あのお金は刹那のために必要になるかも知れない。いや、その頃には障害手当が出ていて、俺も稼げるようになってるはずで、今だ、今必要なんだ。
俺は一度部屋に戻り、通帳を持ってもう一度キッチンに戻った。
兄貴はちょうど食べ終わった所で、流しにどんぶりを下げている。
「兄貴はなんで刹那が自殺だって思ったの」
「警察がちゃんと現場検証してる」
「それが間違ってるかも知れない」
「認めたくないのは分かるよ。俺だってその方がいい。けどもう起こってしまった事は変えられ無いんだ」
洗い終わったどんぶりを伏せて振り返った兄貴は、眼鏡に光が反射してひどく冷たく見える。
「俺はお前にも刹那にも、先を考えれば一番いい方法を取ってるつもりだよ。俺の言う事をきけ」
そう、兄貴はいつも冷静で、そして勝手だ。十年前も勝手に家族を壊すきっかけを投げて自分は出て行った。あの後俺と刹那がどうやって暮らして来たのかこの人は知らない。
「金なら有る。だから刹那は誰にもやらない」
キラリと、眼鏡のレンズが光った。
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