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第19話

 刹那が高校を卒業したのは四年前の事だ。 「刹那は高校を出たら免許を取って、働いて。じいちゃんはもうお前たちに付いていてやれないから、刹那が朔実を一人前にさせてやるんだ。本当に苦労をかけて……」  枯れた声でブツブツと独り言のように呟く毎日。  祖父はその言葉通り就職を選択した刹那を在学中に教習所に通わせて、卒業式の翌日には免許取得と同時に新車が届くよう手配していた。  これで俺たちは交通便の悪い田舎でも自由に動ける。  思えば親は居なくても金の苦労を感じた事は無く、質素倹約の生活でも必要な物は必ず揃えて貰えた。  祖父がちゃんと運転出来るか試し運転をして見せろと言いだしたので、俺と刹那の二人で介助して新車に乗せた。  俺は危ないからまだ乗るなと家に残されたけれど、二人を乗せて出て行く車を見送りながら、みんなが居なくなった家で俺たちを見守っていたのは祖父だったと思った。  昔堅気で今時の子育ての仕方を知らなかっただけで、愛はここにあったのだ。だから俺も刹那もやって来れた。  祖父は自分が亡くなった後も、俺達がこの家で二人で暮らして行けるように道筋を立ててくれている。  その時に二人がどこまで試し運転に行っていたのか、俺は知らない。  翌日の朝は寒い日だった。  起きるとカーテンの間から射し込む光がいつもと微妙に違い、外を見たら庭に白く雪が積もっていた。 「さむ……」  灰色に見える大きな固まりが、まだぼたぼた降ってる。  いつだって朝七時に朝食が祖父の日課だ。  俺は二階の自分の部屋から一階に降りて、居間の暖房を点けてから朝食の支度を始めた。その間に刹那が祖父を起こして温まった居間に連れて来るのがこの頃の流れで、三人でコタツで朝食を取る。  簡単な朝食が出来上がった時、俺の名前を呼ぶ刹那の声が祖父の部屋の方から聞こえた。 「なにー?」  祖父の具合でも悪くて起きられないのだろうか。そう思いながら祖父の部屋に向かうと、閉じた襖の前に刹那が居た。 「朔実、大変な事になった」 「なに。どうかした?」 「死んでる」 「は?」  まさか。  だって昨日は車に乗って出掛けられる程体調が良かったのに、いきなりそんな。 「ちょっとどいて」  思いもしない言葉に襖の前に立つ刹那を押しのけようとして、待てと押し返された。 「普通の死に方じゃない、見るな」 「どういうこと?」  わけが分からない。  俺には全く意味が分からない。  スローモーションのような視界の中で、自分の手が刹那を押し退けて襖を開けた。  部屋の中はひっそりと静まり返っていて、閉じられた障子の向こうから降り積もる雪の音すら聞こえそうな程に寒い。  その薄暗い凍った部屋に、祖父が居た。  畳に敷いた布団の上に、寝巻き姿で胡座をかいて前のめりにうずくまった姿勢で。布団が妙に重々しく湿気って見えて、肌が違和感を察した。  血だ。  布団が大量の血を含んでどす黒く染まっている。 「じいちゃん?」 「朔実、入るな」  刹那が止めるのも聞かず、俺は祖父にかけよってその肩を揺すった。骨と皮ばかりの痩せた細い肩がグラリと揺れて後ろに倒れるのを支えれば、枯れた枝のような両手が包丁を握り自分の腹に突き刺している。 「朔実、触るな。もうダメだ」 「爺ちゃん、爺ちゃん、刹那救急車、早くしないと爺ちゃん死んじゃう」 「もう死んでるんだよ」  だから離せと肩を叩かれ、俺は傍に立つ刹那を見上げた。 「なんで、見ないでそんな事言うんだよ、まだ助かるかも……」  知れない。  そう、見もしないで刹那は祖父が死んでる事を告げた。  俺は部屋の片隅にある仏壇に視線を移す。毎朝お茶とご飯を供えるのは俺の役目で、今朝取り替えるはずだった昨日の固くなったご飯がそのまま乗っていて。  茶碗の位置が、少し変わっていた。  年寄りは大事な物を仏壇に隠すのだ。 「遺書があった」  あぁ……真っ白な障子の向こうにしんしんと降り積もる真っ白な雪。  音を吸収して全てを閉ざしてしまう白い雪。  同じ家に居ながら俺は全く気付かず。何故遺書が有る事まで刹那は知っているのか。 「……これじゃあダメだよ刹那。切腹は……とても深く切らないと……本当は足が跳ね上がって後ろに倒れるんだ……」  刹那が、殺した。  俺たちは爺さんの遺体から包丁を引き抜いて、二人で返り血を浴びる。それから畳の上を歩き回り、さも動転して色々手を尽くしたように部屋を弄りまくってから、救急車を呼んだ。そして親父の携帯に連絡をして、後は誰に何を聞かれても口を閉ざした。  遺書が有ればよっぽど不自然ではない限り自殺になる。孫と三人暮らしのもう動け無い老人の、最後の力を振り絞った切腹を誰が疑おうか。余計な事は言わずに黙って震えていれば全て片付く。  父は仕事が早くて、現場検証が終わる前に内装屋を庭に待機させ、急かして終わらせると即座に奥座敷の内装を全部変えさせた。 「葬式で人が集まるのに、こんな部屋見せられるわけ無いだろうっ!」  怒鳴り散らす父の声を聞きながら、思った通りいい仕事をすると二人ではほくそ笑む。  消して貰わなければならない。  一欠片の痕跡も。  やがて祖母の時と同じように親戚が集まって来たけれど、前回と違ったのは叔母達が血相を抱えて家捜しをするのを今度は父が追い払った事だ。  怒鳴り散らし喚き散らして、しかし叔母達も一歩も引かずに家の中に怒声が飛び交った。 「土地の権利書なら幾らでも持ってけっ!」 「売れもしない山なんかいらないっ!貯金が有るだろう!」 「有るわけ無いだろう、爺さんを食わしてたのは俺だ!金なんか持って無かったんだ!」  祖母が死んでも私物程度しか分配は無いけれど、祖父が死んだとなると事は違う。親戚中が本性をさらけ出す様は滑稽だった。  刹那が父に渡した一通の遺書に書かれていたのは、自分がこれ以上生きていると刹那と俺の足手まといになるから死を選ぶという自殺の理由と、それから自分の子供達に向けた後悔と恨み言だった。情の無い子ばかりを作ってしまった自分の不甲斐なさにかけた、散々の皮肉。  しかしその遺書は遺産の分配が書かれていなければ何の意味も無く、ボケていたんだろうの一言で片付けられた。  そのうちに叔母の一人が貯金通帳を見つけ出して来たけれど、全員で広げたその通帳にお金は無かった。  毎月毎月決まった額が引き出されていて、最後に車の代金と思われる金額が下ろされて終わり。それは年金の振り込み通帳にもなっていて、祖父の収支はそれだけだった。  どこから見ても定期的に出ている金額は生活費、時に多いのは俺たちの学校行事に符合していて、ツッコミ所がない。  尚も続く争いの中で、父が隠れて俺と刹那を呼んだ。 「これを見ろ」  突き出されたのさっきの祖父の通帳で、俺は黙って親父を見る。 「生活費は父さんが刹那に渡していた。刹那はちゃんと家計簿をつけて何に使ったか見せていただろう。なのにどうして爺さんの金が毎月引き出されてる」 「足りなかったから」  堂々と言い切る刹那に、その答えを読んでいた父は何がどう足りなかったかと食い下がるけれど、刹那も用意していたように不足分を語る。 「俺と朔実の食費は子供の頃より増えて当然、服もどんどん小さくなるし、学校指定の物は高い。あんたはそういう成長に合わせた計算が足りない」 「じゃあどうして父さんに言わずに爺さんから貰った」 「身近に居る方に頼るのは当然だ。俺たちはあんたの携帯番号しか知らない。当てにしていた金が無かったからと言って、自分の落ち度を俺のせいにするな」 「報告していた家計簿が嘘という事になる。お前は嘘をついて父さんから金を貰っていたのか」 「それがどうした。結果必要だった分を爺さんが出してたんだから、良かったじゃ無いか」  そこで父の視線が黙り込んでいる俺に向けられた。  蛇のような目をした男で、自分の父親ながら改めて見ると気持ちが悪く、ぞっとする。 「朔実は兄ちゃんが嘘をついて父さんと爺さんの両方から金を貰っていた事をどう思う」  俺は刹那の背中に隠れた。  この人は怖い。子供の頃からろくな覚えも無くて、母に俺をくれてやると言い放った人だ。 「朔実は嘘のつけない優しい子だ。爺さんの面倒をちゃんとみて、お前が居て良かったと、父さんはずっと思っていた。刹那の言いなりになる事は無いんだ、これからは父さんが守ってやるから、知っている事を言いなさい」  いったい何歳の子供を相手にしていると思っているのか。俺たちが成長している事を、この人は知らない。 「刹那が爺さんに頭を下げてるのを何回も見た。そんな思いを子供にさせて、知りもせずに刹那を疑うあんたはクズだと思う」 「この……っ」  その瞬間、怒りで吊り上がった父の目を見た。  殴られる!  身構えたのと同時にバンッと強い音がして、後ろにあった襖もろとも隣の部屋に吹っ飛んだのは、親父の方だった。  刹那だ。人を殴り慣れていて躊躇無く叩ける親父よりも、刹那の方が早かった。 「刹那ぁぁぁっ」 「お前、もう要らないから。今までご苦労さん」 「どの口が物を言っている!」 「息子の成長を喜べ、親を超えたんだ」  畳の上に尻餅をついたままの父の顔面を刹那が蹴り上げ、鼻血が飛び散る。体勢を立て直して飛びかかって来る父をするりとかわして背中を踏みつける。 「刹那っ、やばいって!」  中年親父と十八歳じゃ運動能力が違う。しかも殴り続ける事に躊躇いが無い。  騒ぎを聞いて駆けつけた光輝と俺が必死で刹那を押さえて、あまりの勢いに本気で殺す気じゃないかと怖くなった。 「刹那お前っ、この親殺しがっ!」  ぼたぼたと赤い血が床に垂れる。  親父の鼻から口から、ぼたぼたぼたぼた。  そうして刹那が笑う。  誰よりも美しいその顔で、鬼のように冷たく笑う。 「殺されたく無かったら二度とそのツラ見せんじゃねぇよ」  自分がこんなになったのは全て親父のせいだと笑い飛ばす刹那が、不意に俺の髪を撫でた。 「朔実」  刹那の手が数回軽く髪を後ろに撫でて、そのまま両手で頬を包まれ視線を合わせさせられる。 「心配するな。お前には俺が居る、大丈夫だ」  刹那を人殺しと言うなら、俺と刹那は同罪。やったのは刹那でも二人で隠した。婆さんの時からそうだった。ずっとずっと二人で隠して来たんだ。  だからもう、俺と刹那は二人で一人。どちらが欠けても生きては行けない。 「必要な物だけ用意しろ。もう用が無いから、家を出るぞ」  そのまま、俺達は家を捨てた。

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