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第20話
一千万の記載が有る通帳を兄貴に渡すと、キッチンのテーブルで黙り込んだまま腕を組んで、兄貴はしばらく考えていた。
ここに一千万有る。
これで刹那の入院費も俺たちの生活も何とかなる。けれど出処の分からないお金。
「そうか……」
やがて膠着した空気を壊して、兄貴が呟いた。
「刹那はこの金のせいで誰かに突き落とされたのかも知れない」
「いや、違うよ。刹那は自殺だ」
「なんで、こんな金有るわけ無いのに」
必死で訴える俺に、じゃあお前はと、兄貴が俺を見る。
「刹那が横領でもしてたって言うのか」
ガチッと合った眼鏡越しの視線を、俯く事で俺はそらした。
そうは思いたく無いけど、実際に大金が有る。そして刹那は信じられると言い切れ無い悪さを秘めてる。
「これは親父の金だ」
「親父の?」
「母さんが居なくなった後、親父が生活費として入れてた金から刹那が貯めて来たんだろう。爺さんが死んだ時どんなに探しても金は無かった。生活費が無くなれば爺さんが補うと知っていた刹那が、先に貯金してたんだ」
確かにそう考えれば辻褄が合う。いや、そうだろうか。母が出て行ったのは刹那が小学五年生の時だ。そんな子供が将来を考えて貯金をするだろうか。その年齢で家事の一切をこなしたのは昔からやらされていたから出来た事で、家計までは満足に回せるはずが無い。
「あいつは昔から頭のいい子供だった。俺はあいつが怖かったよ、頭が良すぎて狂ってるとしか思えなかった。実際狂ったガキだったんだと、今は思うよ」
「何を……俺を育てたのは刹那だ、そんな事有るはず無いだろ」
「それだよ。お前を育てなきゃならなかったから、刹那は生きて来た。朔実が居なければ刹那がもっと早くに死んでただろう」
「なんでそんな事が兄貴に分かるんだ。刹那が死にたがってたなんて俺は信じないっ」
「朔実、お前の気持ちは分かるよ。でも分かるだろ。あいつはもうずっと前から、壊れてたんだよ」
ずっと前から壊れてた。
何を言ってるんだ、それこそ理解できない。頭が良くていつだって堂々としてて、見た目も良くて性格は……悪いけど、そんなの死ぬ理由にならない。とにかく刹那が壊れてたなんて、俺は信じない。
「とにかく、まだ親父という当てが有る今はこの金は使わない。どうにもならなくなった時に刹那の為に使う。お前は約束通り親父に会って来い」
「あの親父が会う訳が無いだろ」
「なんだかんだ言いつつな、あの人が一番可愛いがってたのは、末っ子のお前なんだよ」
それこそ取って付けた理由で、俺は親父との思い出なんか一つも無い。いったいどういう目で見たらそんな風に見えると言うのか、兄貴の目は節穴だ。
最もそう言って機嫌を取って、会いに行く気にさせたいのだろう。
俺と刹那の繋がりは兄貴には分からない。絶対に。
「俺は刹那が死にたがってたなんて信じない」
俺を置いて一人で死ぬなんて有り得ない。二人なら生きて行ける。どちらが欠けても一人じゃ生きられない。
なぁ、刹那、そうだろう?
「朔実、いつまでも夢の中に居るな」
「兄貴には何も分からないくせに」
「何が。俺が分からないと言うなら、そう思う理由を話せ。感情的にならずに」
兄貴が分からない事は全部だ。自分が出て行った後の家で、俺と刹那がどうやって暮らして来たのか全部知らない。
兄貴にとって刹那も俺も、弟とは荷物でしか無いのだろう。
「もういいよ」
音を立てて椅子から立ち上がると、こんな遅くにどこに行くと声が追いかけて来た。
荷物も人間の形をした未成年だと保護者責任という物があって、たかが荷物に面子を潰されたら大変だ。ご苦労な事だ。
「朔実」
「卯月さんの所」
他に思いつかなかったから適当に卯月さんの名前を出して、俺はアパートを後にした。
外に出ると町は細い雨に濡れて居た。
夜の景色の中にネオンが滲んで、傘をさした人々が行き交う。
行く当ても無いので雨宿りできる場所を求めて適当に歩く。ゲームセンター、本屋、ファーストフード店。俺が入りやすい店にはどこも地元の高校生らしい集団が居て、みんな楽しそうに笑っていた。
俺もついこの間まではあの中の一人だったのに……。
比べるとなんだか自分が惨めに思えて、交差点を幾つか無茶苦茶に渡り歩いく。
こんな思いをいつまで抱えていればいいのだろう。
二学期が始まれば、俺はまたあの中に戻れるのだろうか。
路肩にタクシーが止まって、ビニール傘をさした黒服が降りた客を出迎えている。
ふと周りを見れば、どこだここ?
繁華街のネオンが雨に滲んでいて、ここより先はまずいなと、ちょうど近くにあったファミレスに入った。
飛び込んだ店のテーブルでドリンクバーだけ注文して、ここで一晩粘ろう。朝になったら病院に行けるし、一晩くらいなら何とかなる。
そう決めてから数時間。俺はテーブルにうつ伏せてうつらうつらしていたのだけれど、隣のテーブルに客が来て、はっと目覚めた。
店内の壁に視線を走らせて時計を探せば、深夜に近づいている。
ため息を吐きながら窓の外に視線を向けると、雨が本格的になっていた。夜の濡れたアスファルトが車のライトを反射して、人ごみの交差点ではキャッチが傘をさしている。
「君、一人?」
隣の席に座った客に声をかけられて、そちらを見ると小ざっぱりした大学生風の男が俺に向かって笑顔で手を振ってた。
「友達来れなくなっちゃってさ、雨だから。空いちゃったんだよね。良かった一緒に飲みに行かない?」
「え?」
意味が分からない。なんで初対面の男と飲みに行くとか、誘うんだ?
戸惑っていると、すかさず男が隣に座って来て、俺はもっとびっくりしてしまう。
「や、俺お金持って無いし、高校生ですし」
「いーって、いーって。気にしないでさ」
良くないだろう。
「奢るから。店近いけど降ってるからタクシー呼ぼうか」
「や……」
そこに滝川君と名前を呼ばれてそっちを向くと、見知らぬスーツの男が居た。金に近い茶髪が雨に湿っている。
「なに?取り込み中なんですけど」
大学生風の男がガラッと雰囲気を変えて低い声で言うのを無視して、スーツの男は手にしたスマホと俺を見比べている。
「滝川 朔実?」
なんだろう。スーツとは言っても妙にテカテカしていて、兄貴が着てるのとは違う。シャツもテラテラで派手だ。
「警察。捜索願が出てる」
「うっそ、なんで」
まさか兄貴が?まさか過ぎる。一晩帰らなくなって心配する年じゃない。むしろ兄貴が心配するはずが無い。
「邪魔するなら公務執行妨害取るよ、退いて」
そう聞いた大学生風の男は舌打ちしながらさっさと席を立って、空いた隣にお巡りさんが座って来た。
お巡りさん……には見えない。胸元にシルバートップのネックレス。お巡りさんってよりはさっき交差点に居たキャッチのような。
「あの……」
「君、幾らなの?」
「え?」
「幾ら?」
幾らって、何がだろう。ドリンバーの代金だろうか。
それより世の中にはこんなお巡りさんが居るのだろうか。
「……二百五十円?」
「あぁ、知らないのかバカだな」
知らない?何がだろう。
首を傾げて見つめていると、男は俺の顔を正面から見てニヤリと笑う。
逃げよう。
「ちょっとトイレ」
立ち上がればすかさずジーンズのベルト通しに指を引っ掛けられて、逃げるに逃げられない。
なんかこの人ヤバイ。
「ノンケの清潔感溢れる美少年か。いいな、ゾクゾクする。今夜は俺が二百五十円で買ったから、お前拒否権無いよ」
ちょっと待て。二百五十円はドリンバーの金額で、俺の値段じゃない。
「手取り足取りケツ取り、色々教えてやるな」
面白そうに笑う男に俺は蒼白になる。
ゲイだ。これってゲイのナンパだったんだ。
そういう世界があるって事は卯月さんに教わったし、俺は今現在、卯月さんの恋人というポジションになっている。
「や、違うから。俺はそういうんじゃないから」
「じゃあ幾らだよ」
「プライスレス」
「無料か、なお結構」
違う、非売品の方なのに。
男に肩を組まれて密着されて、この人そうなんだと思ったら気持ち悪い。俺をそういう目で見てるんだ。
自分が同性からそういう対象に見られてる。
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