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第9話 ムギと不穏

   昼休み。今日は一日ぶりにムギと昼飯を食べる。  たった一日空いただけなんだけど、なぜだか久しぶりに会うような感覚がして、早くムギに会いたいと思った。  向かう足も自然と早歩きになる。  ここ数日で通りなれた道を歩き、目的地まで向かう。ベンチが見えて、その奥にある青々とした芝生のうえに小さな背中を見つけると、胸が高鳴った。  ムギ、と声をかけようとしたら、それよりも先に目的の人物がこちらを振り返る。そして俺を視界に捉えると瞳がこぼれ落ちるんじゃないかと思うほど大きく見開いた。  その唇がちいさく俺の名前をかたどったような気がして、慌ててムギの側まで駆けよる。  近くまでくるとムギは惚けていた顔を引きしめて、ムッと唇を一文字に結ぶ。  え? もしかしてなにか怒ってるのか? 「ムギ?」  会ってそうそうこんな顔をされたのははじめてで、戸惑う。どうしたものかと様子を窺っていると、ムギがおもむろに口を開いた。 「……もう、来ないのかと思った」 「え?」  どこか拗ねたようにつぶやくと、フイとそっぽを向く。膝を抱えこむようにして座るムギを眺めながら、彼の不機嫌の理由を探した。  まさかとは思うけど、俺が昨日ここへ来なかったことを気にしてくれていたのか?  そう思いあたるとなんだかひどく嬉しくなって、ムギの隣に腰をおろす。 「昨日は来れなくてごめん。……もしかして待っててくれたの?」 「別に、約束してたわけじゃないし。待ってない」  にこにこしながら問いかける俺に、ムギはそっけなく返す。けど今の俺はそんなムギのつれない態度もまったく気にならない。 「そう? 俺はムギに会えなくて寂しかったよ」 「……」 「こっち向いて。ムギの顔見たい」  頬にそっと触れてこちらを向くよう促すと、特に抵抗する気配もなく促されるまま俺の方を向く。  ムギは頬をほんのり赤くさせて、いじけたように唇を小さく尖らせていた。  自分だけではなくムギも同じ気持ちだったんだとわかると、俺の口もとは緩みっぱなしになる。  ムギの頬に添えていた手をやんわりと動かして、その丸みを帯びた肌を撫でた。やわらかなそこを撫でていると、ムギの体からだんだんと余計な力が抜けていく。  しかめっ面だった表情も、ふにゃりとやわらかくなっていった。  しばらくそうして手を止めると、ムギがそわそわとして俺の手を気にするようなそぶりをみせる。それからスリ、と自分の頬をそこに擦りつけてきた。 「チアキ。もっとなでて」  おそらく撫でられることがここちよかったのだろう。もっと撫でろとせがんでくるムギに絶句する。  その凶悪さに――――俺は気がついたらムギを抱きしめていた。 「! ……チアキ?」  モトキに見られたら変質者だと罵られそうだったが、これは仕方がない。かわいいのが悪い。ムギがかわいすぎるのがもうだめだ。  自分に言い訳をしながらしばらくそのままでいると、腕のなかで大人しくしていたムギがちいさく息をのんだ。 「……っ」 「ムギ?」  見下ろすと、ムギはぱちぱちとその大きな瞳をメガネの下で瞬かせていた。 「このにおい……」  俺の胸に手をついて首のあたりに鼻を寄せるムギに、不安がよぎる。 「においって……え、もしかして汗臭い?」  午前中に体育の授業があったこともあり、まさか汗臭かったのだろうかと青褪める。  終了後に拭きとりシートなどを使って一応気をつけてはいたのだが、足りなかったか。こういうちょっとした落ち度でムギに嫌われるようなことがあれば立ち直れない。  しかしムギはそれに首を横に振って答えた。 「汗じゃない」  どうやら汗の臭いが気になったわけでないらしい。ムギから否定されて、ホッと息を吐く。 「そうじゃなくて、これは――」  ムギはぽつりとつぶやくと、ぎゅうっと眉間に皺を寄せる。 「チアキは…………αなの?」  ムギの問いかけに目を見張る。まさかムギがさっきから言っていたのはフェロモンのことなのか。  いや、だけどこんなにショックを受けているということは、もしかしてムギは俺がαだってまったく気づいてなかった?  確かにαだと話したことはなかったけど、そこまで驚くことなのだろうか。  ムギの様子がおかしいことを訝しく思いながらも、俺はその問いを肯定する。 「うん、俺はαだよ」  すると珍しくムギが慌てた様子で食いついてきた。 「でもチアキ、βにしか見えなかった。こんなに近づくまでにおいだってわからなかったのに」  信じられないとばかりにそう訴えてくるムギはどこか必死だった。俺がαだとなにか問題でもあるのだろうか。 「フェロモンはもともと薄いんだ。見ためもまあ、αっぽくはないみたいだけど……それでも、俺はαだよ」 「……っ」  そう伝えると、ムギは戸惑いを隠せない様子で俺から目を離し、胸に置いた手に力をこめてのろのろと距離をおく。その後俺の腕から抜けだすと立ちあがり、逃げるように去ってしまった。  ――――そして、次の日からあの場所に来なくなった。  

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