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第36話 そのあとのできごと

  「え……ホムラ、様?」  ホムラと一緒に俺の部屋を出たところで、偶然マオと鉢合わせた。  ジャージにハーフパンツ姿で、首からタオルをかけているマオはどうやら日課であるウォーキングを終えたあとのようだ。ホムラに目をとめると、大きな瞳を真ん丸くさせている。  まさかこのタイミングでマオとホムラを会わせてしまうことになるとは思わず、俺は慌ててふたりを遮るようにしてマオの側にかけ寄った。 「にゃんにゃん……これは、ええと」  放心しているマオ相手にどう説明したらショックが少ないかと頭を悩ませていると、マオの膝がかくりと崩れた。 「! にゃんにゃん!?」  小さな体が廊下に尻餅をつく前にさっと手を伸ばし、しっかりと支える。  突然のできごとにドキドキと早鐘を打つ心臓を押さえながら、マオの顔を覗きこんだ。 「大丈夫……?」  どうやらホムラを前にして腰が抜けたらしい。  初めて出会ったときもマオはホムラの目に留まろうと一生懸命で、もしかしたら今も複雑な感情を持っているのかもしれないと思う。まだほんの最近のことだから、当然と言えば当然の話だ。  そうわかっていたけれど、まっすぐホムラに向けられた瞳にじくりと胸の奥に気持ちの悪い感覚が広がっていく。 「あ……チアキ、ごめん。ちょっとびっくりして」  肩を支える俺に、ようやくマオの視線が向けられる。その顔には戸惑いがありありと浮かんでいて、もう少し周囲に気を配るべきだったと後悔した。  いつかはわかることといえども、タイミングというものがある。ホムラが群れに入ってくれたことに少々浮かれすぎていたかもしれない。 「お前は確か……俺の群れにいたΩか」  ぽつりと溢された言葉にホムラを振り返る。それまでじっとこちらの様子を窺っていたらしいホムラの視線は今、マオに向けられていた。  それにマオがはっと息を飲んで、きゅっと握りこぶしをつくる。 「ぼくのことを、ご存知なんですか……?」  あれだけいるΩの中で、ホムラがマオのことを覚えていたことが意外だった。それくらいホムラの群れに属していたΩは多かったから。それはマオも同じだったようだ。  震える声でおそるおそる問いかけたマオに、ホムラはああ、と短く頷いた。 「よく差し入れを渡そうとして他のΩに牽制されていただろう。印象深かったから覚えている」 「……ッ」  淡々と返された答えに、マオの体が震えた。  あらかに様子のおかしいマオのことが心配になり、そっと顔を覗きこむと、瞳にこぼれ落ちそうなくらい涙を溜めて唇を噛み締めていた。  泣き出す寸前という状況に、頭が真っ白になる。 「えっ。にゃんにゃん……? どうしたの大丈夫?」 「う……うぇ……」  それから大粒の涙を溢しながら本当に泣きだしてしまったマオに、血の気が引く。  泣いてるマオにひどく動揺しながらも一刻も早くこのふたりを引き離した方がいいと判断して、マオの腰に腕を回し、さりげなくこの場から離れようと試みる。しかしそれは数歩進んだところで、マオによって止められた。 「チアキ……ちがう。ごめん、ぼく……嬉しくて」 「へ?」  ――――嬉しい?  マオの口から聞かされた予想外の事実に、困惑が深まる。だけどマオは負の感情から泣いていたわけではなかったようだ。それがわかって、少しだけ安堵する。 「ホムラ様は、きっと……ぼくの存在なんて気にもとめられていないと思ってたから」  存在を認識してもらえていたことがわかって、それがとても嬉しかったのだという。  嗚咽を洩らしながらマオがぽつぽつと話す。 「にゃんにゃん……」 「突然、すみません。ありがとうございます」 「いや」  ホムラと向き合うマオはどこかすっきりとした表情をしていた。ホムラも、マオに向ける目がなんとなく優しく感じた。  え。ちょっと待って。これってどういう展開だ。もしかして俺邪魔者?  目の前のふたりの雰囲気に複雑な気持ちになっていると、隣にいたマオがぴったりとこちらに身を寄せてきた。ん? と首を傾げると、不意打ちでびっくりするほど可愛らしい笑顔を向けられて、心臓が止まりかける。  つられてマオに笑いかけると、今度はきゅっと手を握られた。 「?」  よくわからないが可愛いからいいかと結論づけていると、ふいに影が落ちて視線をマオから正面へと向ける。そこに不機嫌全開のホムラの姿を見つけて、俺は顔を思いきり引きつらせた。  あ、もしかしてこの状況が原因か。  マオもわざとやっているわけではないようで、急に機嫌の悪くなったホムラをびっくり眼で見上げている。驚いているマオは可愛いけれど、今は多分それどころじゃない。 「……そういえば、どうしてホムラ様が一年のα寮(ここ)にいらっしゃるの?」  直球で投げられた疑問に俺はビクリと体を緊張させる。  これは今、ありのままをマオに伝えても大丈夫なのだろうか……?  だけどホムラはこれから同じフロアに住むのだし、顔を合わせる機会も増える。なにより、ここで少しでもごまかすようなこと言ったときのホムラの反応が怖かった。  正面から感じる威圧に堪えながら、重たい口を開く。 「あー……にゃんにゃん。ホムラは、今日からここに引っ越してくるんだ」 「え?」  心底意味がわからないといった様子でまばたきをするマオに、内心で大量の汗をかく。これ以上どう表現していいのかわからず頭を抱える。  言葉を詰まらせていると、代わりにホムラがマオに向きなおり口を開いた。 「今日からチアキの群れに入った」 「……え」 「だから俺の前でそいつに触れるのは遠慮してもらえないか」  言い終わるのとほぼ同時に腕を引かれて、マオから距離をとらされる。  ホムラのド直球な返答に軽い目眩がした。 「……ホムラ様が、チアキの群れに……?」  マオはぽかんとした表情でホムラから伝えられた言葉をうわ言のようにつぶやくと、言葉を失ったように黙りこんだ。 「……」 「にゃ、にゃんにゃん?」  おそるおそる声をかけると、マオの体がぐらりと傾く。 「わーっ! にゃんにゃんっ」  ホムラが俺の群れに入ったという事実によほどの衝撃を受けたらしいマオは、そのあとしばらく目を覚まさなかった。  

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