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第3話
ホレイショがゆっくりと金網に近付く。
彼は屋上の角に辛うじてしゃがんでいた。
ホレイショが彼を驚かさないように穏やかに言う。
「私がホレイショ・ケインだ。
そんな所でどうした?」
彼が顔を上げる。
彼はポロポロと涙を零していた。
「もう…嫌なんだ…。
身体を弄り回されるの…」
「ああ、分かるよ。
なあ君…」
「分からねーよ!」
彼が絶叫する。
ホレイショがフフッと笑う。
「元気があって安心したよ。
なあ、そっちに行っていいか?」
「……え?」
彼が涙はそのままに、キョトンとした顔になる。
「おい!ホレイショ!」
いつの間にかホレイショの1メートル後ろで待機していたトリップが、低く怒鳴る。
ホレイショは彼を見つめたまま言う。
「トリップ、俺が『今だ』と言ったら待機している警官全員で俺と彼から3メートル離れた所の金網を破れ。
どんな手段でも構わない。
但し、俺と彼に但し近付き過ぎるなよ」
そしてホレイショは金網に手を掛けたと思うと、あっという間に金網を登り有刺鉄線をひらりと避けて飛ぶと反対側の金網を掴み、金網の反対側に降り立った。
彼はただただホレイショを見上げている。
ホレイショが彼の前にしゃがみ、スーツのジャケットを脱ぐと、彼の肩に掛けてやる。
彼が「……なに?」と呟く。
彼の涙を反射して光るヘイゼルグリーンの瞳。
整った鼻梁。
少しぽってりした形の良い唇は、泣いたせいか赤く染まっている。
ホレイショが微笑む。
「こんな所にいて寒いだろう。
さあ、私の手を掴むんだ。
そして何があっても離すな」
ホレイショが差し出した手に、彼の震える手が触れる。
彼はホレイショの手を掴もうとしているが、力が入らないのだろう、掴めずにいると、ホレイショががっちりと彼の手を掴んだ。
「私は何があっても君を離さない。君も離すな」
ホレイショの言葉に、彼が子供のようにコクンと頷く。
そしてホレイショは「今だ!」と叫んだ。
「全くホレイショのヤツ無茶しやがって!」
「まあまあそう怒るなよ、トリップ。
それでこそチーフ、だろ?
それで被害者達の身元は分かったの?」
デルコが笑いながら、拡大鏡から顔を上げる。
「お前達が引き上げた後、あの隠し部屋は勿論、クラブやオフィスも隅から隅まで探したが、IDも免許証も見つからん。
被害者達の私物は一切無い」
「外のゴミ箱も確認した?」
「お前達もしただろ?」
「まあね。
でも一片のゴミも無ければ一滴の血痕も無かった」
「そうなんだ!
ウチでもしたさ。
だが空っぽだった。
しかもゴミ箱の内側までピカピカに掃除してただろ?」
カリーも拡大鏡から顔を上げると肩を竦める。
「そうなのよね。
あのゴミ箱は何の証拠にもならないのに掃除してる。
きっと犯人の性格というか普段からの習性ね。
それでチーフは?」
トリップが腰に手を当て深いため息をつく。
「彼の検査が終わるまで付いててやるってさ。
彼の手を握ってやってるよ」
「本当に可哀想…。
相当酷い目にあったのね。
助けてくれたチーフしか今は信頼出来ないんだわ。
こっちも悪い知らせ」
「何か分かったのか!?」とトリップが前のめりになる。
「これを見て」とデルコが顕微鏡を指さす。
トリップが顕微鏡を覗く。
「何だ…?
湾曲した線が重なってるが…指紋だよな?」
「ご名答」
カリーがテーブルに広がる鉄の手錠を手の平で指す。
「この手錠は10組あった。
さっきまで吊られていた女性三人と男性一人を除いても、軽く20人分の指紋や皮膚片が出たわ。
皮膚片の方は、今DNA解析に廻してる。
私とデルコは重なった指紋を分離出来ないか試しているところ。
それとウルフが採取した被害者達の指紋は、全員犯罪者データベースでヒットしなかった。
免許証も社会保障番号もダメ。
今は顔立ちから行方不明者のデータベースを当たってるわ。
ナタリアはチーフが助けた彼が隠し部屋で拘束されていた時に採取した物を、あらゆる角度から分析中。
でもDNAからは犯罪者データベースにヒットしなかった。
簡易薬物検査で分かったことは、全員ドラッグはやっていないわ」
「あの男二人の胸に彫られていた刺青は?」
デルコが二枚の写真をテーブルの脇に並べる。
「この青い太陽みたいなやつだろ。
これも刺青のデータベースには無かった。
たぶん彫師のオリジナルじゃなくて、二人がデザインを注文したんだ」
「じゃあやっぱりあの二人は兄弟ってことか?」
カリーがトリップの肩をトンと叩く。
「それは吊られていた男性が目覚めて、DNA採取に同意してくれるまで分からないわ。
それに兄弟にも色々な意味があるでしょう?
血が繋がっていなくても、『兄弟』と呼び合う関係は沢山ある。
それよりチーフが付いている彼は?
いくら怯えてても、名前くらい言ったんじゃない?」
「クッソー!!
最悪なことを言うのを忘れてた!」
「なに?
これ以上最悪なことがあるの?」
「あるッ!」
トリップがまん丸い瞳をグリグリさせながら言う。
「彼は記憶喪失だ」
「さあ終わりましたよ」
男性医師の声がして、彼の足が検査台から下ろされ、下半身を隠していたカーテンが開けられる。
「麻酔をしたから痛くなかったでしょう?」
医師の言葉に、彼がホレイショの手をぎゅっと掴む。
彼は涙に濡れた顔でホレイショを見つめている。
「君、私も先生から説明を聞こうか?」
ホレイショの申し出に彼が小さく頷く。
「先生、彼の具合いはどうですか?」
「彼の性器と肛門の外にも中にも裂傷はありません。
ただどちらの内壁も酷く腫れています。
日常生活は辛いでしょう。
そこで今夜から五日間、一日三回朝昼晩とジェル状の腫れが引く薬を性器と肛門に注入します。
ジェルを注入して1時間は排尿と排泄はしないで下さい。
ただ性器に注入するには少し痛みがありますから、塗り薬の麻酔薬を使用してから薬を注入します。
今日はもう注入は済んでいますから、明日の予約を取ってお帰り下さい」
その時、「…やだ」と彼が小さく言った。
ホレイショがやさしく「どうした?」と訊く。
「もう他人に身体を触られたくない!
薬は自分で注入する!」
すかさず医師が「無理です!」と言い切る。
「あなたは私が傷を確認すると言ったら何をしました?
暴れて看護士達を殴りつけて点滴を勝手に外し、自殺まで計ろうとした!
あなたにとって治療とは言え、性器と肛門を触られるのは、恐怖でしかない。
それを自分で行う?
馬鹿馬鹿しい!
いいですか。
薬を注射器型の注入器を使用して患部の奥まで注入するには、性器と肛門にそれぞれ適したクスコという器具を使って性器と肛門を広げなければならない。
それが自分で出来ますか?
あなたは自分では怖くて出来ない筈だ。
何故ならレイプ犯もそうしてあなたに様々な行為を行ったのだから。
そもそも薬を注入することだって怖くて出来ないでしょう」
彼は何も反論せずに、肩を震わせしゃくり上げる。
「先生、ちょっと外で話せますか?」
ホレイショの言葉に、彼がホレイショの握った手に力を込める。
ホレイショは片手で白いハンカチをスーツのジャケットから取り出すと、丁寧に彼の顔を拭いてやる。
「直ぐに戻る。
私を信じて待っていてくれないか?」
彼が小さく頷くと、ホレイショの手を離す。
ホレイショは微笑んで彼の髪をくしゃりと撫でると、医師と病室を出て行った。
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