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第16話(蜜月編)
本当の理由は教えても良いが、面と向かって言うのは場所が場所だけに憚られた。
「いや、いささか…」
理由に為らない返答を返す。
「靴が合わなくて歩きにくいのではないか」
片桐が見当違いの心配をして呉れる。靴も新調した物だから片桐が気にするのも尤もだった。
「いや、そういう訳ではないが…」
彼の後ろ姿を眺めるのは別の機会に譲って、並んで歩く。メインダイニングに近くなると特等船室の人間が集まって居る。
ざっと見た所、日本人が二割、外国人が八割と言ったところか…。
この時代も洋行する日本人、それも特等でというのは矢張り少ないのだろう。
ダイニングに入って、席を聞く。航海一日目という事も有って、日本人だけのテェブルだった。そこに日本人の船長も着席する。
片桐の隣は男爵夫妻の夫だった。夜会で見た事の有る顔だった。確か、一代で財を成した新興華族だった。男爵の位はお金で買えるので、素性は分からない。片桐は非の打ち所の無い挨拶をして席に座る。その横は自分、そして自分の横は三條と同じ公家華族の御令嬢だった。
「まあ、加藤様では有りませんの。わたくし、夜会で度々お目にかかりましたわ」
「お久しぶりです」
あまり覚えて居ない相手だったが話しかけられたからには返事をしなければならない。
「加藤様は倫敦に御留学とか…おめでとう御座います。わたくしは見聞を広める為に父にねだって英吉利と仏蘭西に参る予定ですのよ」
上気した顔で話しかけて来る。その隣には、どこかの夜会でお会いしたことが有る彼女の父上が座って居た。
「何て素晴らしい偶然なのでしょう。加藤様と同じ船に乗り合わせる事が出来るなんて。わたくしも父も英語は苦手ですの。御助力戴いて宜しいかしら」
彼女の声が弾んでいる。声もこの場では少し大きすぎた様だ。片桐が表情の選択に困った様な顔をして、こちらをちらちらと見ている。
誤解されては適わないので、返事は最小限にとどめた。
船長がおもむろに立ち上がり、乾杯の音頭を取った。
皆、シャンペンのグラスを取って乾杯する。
それを合図に前菜から始まる仏蘭西料理の皿が各々のテェブルに給仕された。
片桐も含めて、皆マナァ通りに食事を進めて居た。
「申し遅れましたわ、わたくし道原百合子と申します。初めての洋行ですし、英語は不得手で御座いますの。どうか宜しくお願い致します」
「……加藤晃彦です。この船は日本人の船員が沢山居ますのでそちらに助けを求めたら如何ですか。書生達も連れていらっしゃるのではありませんか。それなら不便は有りませんよ」
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