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第26話(蜜月編)
会釈して座った。
朝食は英吉利式らしい。オートミールから卵の焼き方、紅茶の種類などを聞かれる。思いつくまま注文を告げる。
片桐は食欲が無さそうだったので、自分と同じものをと頼んだ。
「加藤様と片桐様ですわね。確か倫敦大学に御留学とか」
控えめな訪問着を纏った老婦人が話しかけて来る。
「はい、そうです。しかしお耳に届いておりましたか」
「ほほ、有名ですわよ。社交界の片隅に置いて戴いているわたくし達ですら存じてますもの。ね、貴方」
慈しむ様に自分達を見てから夫に笑いかけた。
「ワシの時代などは外国に留学する者も多かったが大正帝の御世に成ってからは滅多に無い事だ。しかも畏れ多くも皇后陛下の御声掛かりなのだから…しっかり学んで来ると良い」
年を取っても夫婦仲の良さそうな感じだった。
自分達は夫婦には成れないが、こんな風に年を重ねて行けたら…と思わせる。
「はい、しっかりと勉学に励む積りで居ります」
片桐もミルクティを飲みながら微笑んで居た。
先に礼儀正しく挨拶してから老夫婦が席を立ちってしばらくしてから自分達も食事が終わる。さっさと船室に引き上げた。
片桐が全部食事を食べ終えたのを見て少し安堵した。昨日は無理をさせたので尚更心配だった。
「三等のデッキに行くのだからこれ位の格好で良いだろうか」
片桐が、白いシャツにズボンといった服装で聞いた。
その服装から、――そういえば、片桐の屋敷に忍んで行く時これと同じような服を着たな――と懐かしく思う。
自分も似た服に着替えようとシャツを脱ぐと、彼がそっと手を押さえた。
「肩の傷…消毒しておくから…そのままで…」
昨夜彼が我を忘れて肩を噛んで出来た傷だ。それ程気にして居なかったが、痛い事は痛い。
片桐が船室備え付けの薬箱を持って来て、ガーゼに消毒薬を浸す。消毒だけして呉れるのかと思っていると、肩口に吐息を感じた。そして、唇が背後から押し付けられ、傷口を舐めてから名残惜しげに彼の唇が離れて行った。直ぐにガーゼでそっと拭われる。
彼なりの罪滅ぼしの積りなのかも知れないので黙って成すがままにしておいた。
シャツを羽織り、今度は自分がカギの束を持ち、施錠した。
「俺もちゃんとカギ掛けていたよな」
「ああ。しっかり見ていた。大丈夫だ」
片桐が笑って報告する。船に乗ってから彼の笑顔が格段と増えた事も嬉しい出来事だ。
「では、三等のデッキから見に行こう」
そう言って、不自然で無い程度に身体を近付けて歩き出した。
片桐の関心は常に平民で、貧しい暮らしを余儀無くされている人に有る。それが分かっているから三等のデッキへとまず行こうとしたが、特等のデッキから開けられるのはまず二等のデッキへと続く金網のドアだった。開けると、特等とは違って庶民の活気が有る。皆、白いシャツに糊の効いたシャツにズボンと言った姿だった。日本人の割合はかなり多いだろう。外国人も散見するが、特等と比べれば比率が全く違う。やはりこの船は横浜発の日本の外国航路船だけあって日本人の男性が多い様だ。商人らしい――いや、この場合は貿易商だろう――貿易会社の社長や社員が多い様に見受けられる。
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