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第29話(蜜月編)
「とても感じる」
その一言で抱き締める力が思わず強く成った。しかし、片桐は唇を弛めたまま他の事を言い出した。
「最初に会った商人な、天狗のお面は売れるだろうが、他は日本に持って帰るか二束三文の値段で売り飛ばすしかないだろうな。英吉利の蚤の市かどこかで」
「何故だ」
力の緩んだ隙に片桐は端整な顔に極上の笑みを浮かべて腕からすり抜けた。
「晃彦がオレの考えている答えを当てたら、今夜、晃彦の思い通りの事をする」
そう告げる彼の睫毛が強い日光のせいで肌に影を作る様子を呆然と見ていた。
「次は三等デッキだから…煙草を買って来る。そこでゆっくりと考えていてはどうだ」
笑みを含んだ声でそう言い、歩いて行く片桐のベルトを締めた細い腰を見ていた。
――天狗と「おかめ」や「ひょっとこ」のお面との違い…。敢えて言えば天狗は真っ赤で他は淡い色で彩色されている。それと天狗には長い鼻が有るが、他のお面には無い。他にも色々考えていたが、思い浮かばない。
しかし、正解を告げれば望みが叶う。今の希望――交情の後に自分の愛情の証を彼の内部に指で清めたい――は切実な願望だ。何とかして考えなければ。
片桐が戻って来るまで立って脳裏を掠める解答を探していた。彼は見た事も無い煙草の箱を三つ持って居た。
「先ほどのとは違う銘柄なのだな」
「ああ、これは三番目に安い物なのだ。三等の客は多分一番安い煙草を吸っているに違いないから…」
三等の客の事を考えたのだろう、彼の顔が僅かに曇る。
「二等デッキの客に気付かれない様に三等デッキに下りよう」
片桐の腕を掴んで歩き出した。頭の半分は「お面の謎」を考えて居たが。
誰にも見咎められずに三等のデッキに降り立つ事が出来た。三等のデッキには日本人ばかりではないかと思う程だった。
「二等と違って、殆ど皆、和服だな」
「そうだな…着物を着ていない人も、どこかの古着店で買って来たのだろう。身丈の合わない洋装だし、ズボンを穿いていても下駄だ」
心のどこかが痛そうに片桐が言った。
着物にしても、自分達とは縁が無い膝丈で切って有る実用的なものだった。酷い人は下着姿のままだ。
「つまりは、履物まで手が回らなかったという事か。しかし草履ではなく何故下駄を」
「下駄の方が長持ちすると聞いて居る」
成る程と思った。二等デッキでは、曲がりなりにも皆ベンチに座っていたが、こちらでは、ベンチに寝そべって居る人も多い。
その1人に片桐が近付いて声を掛けた。
「大丈夫ですか」
「病気じゃねぇんだ、多分、船酔いとかってやつだろう。船室でも、吐いたりしているやつが多いんだ。船室は空気が悪いからここに逃げて来た」
まだ日本の領海内なので、波は高く無い。それなのに船酔いで苦しむ人が多数居るという。三等が個室であるわけは無い。吐瀉物の臭いは船酔いを誘発する。それでこの人はここに居るのだろうと思った。
「船酔いは、無理に立つと余計悪化します。出来ればベンチに横になったまま目を閉じて何も考えずに船の揺れに任せた方が良いですよ」
「おお、兄ちゃん、ありがとな」
片桐に礼を言った男は素直に目を閉じた。
「色々物知りだな」
心底感心して耳元で囁くと、少しこちらへ顔を向け、はにかんだ様に微笑した。
「外国へ行きたくて色々な本を読んでいたからだ」
「そうか…。それはそうとお前の謎を是非解きたいのだが、ヒントは有るか」
少し考えてから片桐は言った。
「オレの答えは正解ではないかも知れないが…それでも良いのか」
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