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第34話(蜜月編)

 それだけで膝が震えた片桐は、身体を密着して熱い吐息で囁いた。 「晃彦…今、欲しい…しかし、しっかり食事を摂らないと」  彼が食欲を訴えるのは珍しいので、名残惜しげに身体を離した。  彼が一部の隙も無い正装に着替えると、先ほどの口付けの余韻からか目蓋に朱を刷いた様だった。  ダイニングに行くと、目にしたくない人物が居た。勿論オブライエンだった。彼はイギリス風にシルクハットまで手に持った気障な格好をして居る。  気軽に二人に声を掛けてきて「食事を一緒に食べよう」と有無を言わせず空いている席に座らせた。今夜は座席が決まってないらしい。  やはり彼の片桐を見る視線が何かを感じさせるのは邪推だろうか。邪推なら良かったのだが。 「晃彦、本当か。ならば教えて呉れ」  片桐が顔を輝かせて言った。 「ミスズ、君は…」  言いかけて、今自分が何処に居るか気付いた。そしてオブライエンの興味津々の顔つきも。片桐だけなら告げても問題は無いだろうが、オブライエンがどういう思想の人物か分からない。英吉利人の前で言うのは憚られた。特等の給仕の耳目も有る。彼らも英語が話せる選良の筈だ。  自分が気付いて居る事を片桐が気付いて居ないのを利用して、片桐の謎のヒントも欲しい。色々考えを巡らして、此処では言わない方が得策だと判断した。 「ミスズ、食事の途中だろう。後で俺達の部屋に来ないか。良い物を見せて上げる」 「晃彦、その様な悠長な事…」  言いかけた片桐を視線で制した。かつて無い動作に片桐は黙り込む。察しの良い彼の事だ、何か有ると思ったのだろう。 「良い物って」  ミスズがあどけない口調で言った。 「きっと君も見たら喜ぶと思う」  片桐はオブライエンとの会話を止め、優雅かつ素早く食事を片付けようとしていた。ミスズの手掛かりを知りたいのだろう。デザートと食後の珈琲は断って居た。自分も勿論それに倣う。ミスズの素性について自信は有ったが、完璧な確証は無い。  ミスズの食事は子供用という事も有り、早く終った。テェブルにオブライエンが1人取り残される。  片桐は日本式にお辞儀をして、別れようとしていた。オブライエンは、食事を一旦止めて立ち上がり帽子を胸に当てた。片桐には甘い瞳を、そして自分には片桐には気付かれない様にして挑発的な眼差しを送って来た。もう今更驚かない。険の有る目で彼を見た。

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