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第53話(蜜月編)

 片桐の性格は知悉して居る。もし、自分が負けると、彼がどういう行動に出るか予測出来る。自分に操立てして、オブライエンの求愛を撥ね付けるだけでは済まないだろう。肉体関係を求められたなら、最悪の場合は自分の命を絶つだろう。そこまでしなくとも、彼が又、精神的に追い詰められる事は必至だ。 焦燥感に駆られ、食後の珈琲を断ってダイニングを後にする事にした。 「今日も林氏に教えを請いに行くが、お前は倫敦大学に入ってからの事を考えると、船室で勉強するなり、ゆっくりしていたらどうだ。何も考えずに俺に任せて置けば良い」  給仕が椅子を引いて呉れる時にそう言った。  片桐は落ち着いた微笑を浮かべ自分の珈琲を断ると、静かに告げる。 「オレの為に晃彦が頑張って呉れているのだから、自分の事にかまけて居る訳にはいかない。岡目八目という諺も有ることだし、練習を見て、気になった点を助言する」  彼の真率な言葉を聞くと昨日以上に稽古に励みたく成った。 「そうか…では船室に寄って着替えて二等客室に行こう」  二人して船室に戻り、荷物の中で一番動き易い服を選ぶ。  片桐は大学に通う為に用意した白い首まで隠れる服を未だ整理されて居ない衣装が入った荷物の中から選び身につけ――自分達から見れば――質素なズボンに着替えて居る。  オブライエンには見せ付けていた首筋の愛撫の痕を他の人間には見られたくないのだなと思った。  多分彼は無意識でしているのだろう、人差し指を唇に当てていた。  要望に応えて、抱き締めて熱い口付けを送る。未練は有ったが、それを理性の力でねじ伏せ深く重なった唇を離す。口付けの余韻で二人の唇から光る橋が刹那、掛かった。  彼は耳元で真率に囁いた。 「晃彦…もし不本意な結果になったとしても、オレが愛するのは世界中でお前だけだ。他の人間をとこんな事は絶対しないと誓うから」  その言葉を聞いて先程の危惧が蘇る。今は練習有るのみだと自分に言い聞かせた。――万が一敗れれば…――  暗い予感を振り切って、練習に命懸けで打ち込もうと、今は練習の事だけを考えようと自分に言い聞かせた。  二等の運動室に行くと昨日と同じ様に閑散としていたが林氏と美鈴は待って呉れて居た。  美鈴は、まず片桐に笑って朝の挨拶をした。次に自分にも挨拶をして呉れる。美鈴には昨日の礼を兼ねた笑顔を送ってから、林氏に向かって頭を下げ、指南を受ける者としての礼儀正しい挨拶をする。 「お礼には及びません。美鈴の件でこちらもどれだけ感謝しても追い付きませんから」  若干、イントネーションがおかしいものの、流暢な日本語だった。美鈴が迷子に成った時中国語しか出てこなかったのは余程気持ちが動転していたのだろうなと思った。 「では、稽古を始めましょうか」  林氏の言葉で自分を含む三人の緊張が高まる。美鈴も真剣に観察している様だった。  昨日林氏と美鈴に注意された事を思い出して、成るべく直線での動きを無くそうと努力するが、物心付いた時から習っている剣道の癖が中々抜けない。つい背筋を伸ばして相手に打ち込もうとしてしまう。  焦った表情を林氏に読み取られたのか、静かに剣を下ろして言って呉れた。

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