54 / 82

第54話(蜜月編)

 次は美鈴が教えてくれた。身長差があるので自分の方が有利な筈だが、美鈴はフェニシングだけを習って来た身だ。変幻自在に動く彼女の身体と剣先に付いて行くのは至難の技だった。恐らくは初心者の自分に手加減はしてくれているのだろうが、剣先を追うと体の動きがどうしても直立になってしまう。美鈴の動きを追う事だけを考え、彼女の剣先をどう防御するかだけを考えて稽古した。 「休憩にしようよ」  美鈴が言った途端、集中力が切れ不覚にも床に座り込んでしまった。近くに居た美鈴は心配そうに言った。 「大丈夫?」  顔を覗きこまれて驚いた。彼女は全く汗をかいていなかった。自分は全身汗だくだと言うのに。  片桐は心配そうに走って来た。 「大丈夫か…少し休んだ方が良い。丁度、昼食の時間だ。食堂へ行こう。貧血などは起こしていないか」 「ああ、大丈夫だ。少し集中しすぎた様だ」  片桐はかがみ込み、左手で腕を誘導して彼の肩を貸して呉れた。肩を貸してくれなくても歩ける…そう言いたかったが、折角の機会だ。右手を彼の肩に回し、彼に従って歩いた。少し冷たい彼の体温が心地良い。それと清潔な石鹸の香りも。 「大丈夫ですか」  林氏と美鈴が交互に言うので、二通りすがりの二等船客も奇異な目で見る事は無かった。 二等の食堂までそのまま歩き、四人席に落ち着いた。片桐の身体が離れて行くのが少し切なかった。 給仕が注文を取り終わると、片桐はポケットの中から手品の様にタオルを取り出した。 「タオルを濡らして来る」  そう言って彼が立ち去ると、林氏が言った。 「片桐様も努力家でいらっしゃいますね。私の隣で真剣な眼差しをして、加藤様と美鈴の練習を見ていらっしゃいましたよ。あの御様子だと、自分ならどう受けるかと頭の中で計算していらしたように思えます。その証に時々身体が動いて居られました」  片桐の強さは――剣の方は知らないが――喧嘩なら知っている。もしかしたら剣も自分よりも強いかも知れない。少し自嘲気味になってしまう事が止められない。 「私が不甲斐ないからでしょう。美鈴の剣先すらまともに受ける事が出来なかった。美鈴は手加減していた筈なのに…」  美鈴は手にしていたグラスを驚いたように卓に置いた。 「私、手加減してないよ。本気で打ち合ったよ」 「本当に?」  美鈴は力いっぱい頷いた。林氏も横から言葉を挟む。 「美鈴の試合を随分見て来ましたが、今日のご指南の美鈴は本気で打ち合っていました」  喜んでいいのだろうかと思った。片桐はまだ戻って来ない事を少し案じながら、美鈴に聞いた。 「君は打ち合っている最中、汗をかかないね。どうやってそう出来るの」 「汗?いっぱいかいたよ。ほら…」  背中を見せた。上着がぐっしょり濡れている。 「しかし、君の顔には汗が浮かんで無かった」 「う~ん…思いっきり集中するの。そうすると、不思議な事に顔に汗は浮かばなくなったの」  成る程と思った。自分はまだそこまでの境地には達して居ないという事だ。  片桐は先程のタオルを水で濡らし、もう片方の手には見慣れない、渇いたタオルを持って戻って来た。 「船員さんに頼んでタオルを借りた」  そう言って汗の浮いた顔から順番に濡らしたタオルで拭って呉れる。汗に濡れた背中まで彼の繊細な指先が辿る。

ともだちにシェアしよう!