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第56話(蜜月編)
「失敬。私の名前は二等客室のウイリアムと言う。お会いできて嬉しいよ」
「お会い出来て光栄です」
片桐がまず言ったが、彼の目に不思議な靄がかかっている。何かを思い出している様子だ。
それぞれ自己紹介を済ませると、ウイリアムは厳しい顔つきながら柔和な目をして言った。
「見学していても構わないだろうか」
口調こそ丁寧だが、他人に有無を言わさない迫力が有った。元より断る筋合いは無い。此処は一般に開放されている場所なのだから。
八時までウイリアムは見学していた。余程興味が有ったのだろう。林親子が明日の約束をして夕食に行く。
昼間から水分も食物も摂っていない自分の為に片桐が何時の間に手配したのだろう。夕食用のお握りと味噌汁、そして二等の食事を三人分差し出した。
三人分…と疑問に思っていると、ウイリアムの分だと分かった。日本食なのに、フォークとスプーンが用意されていたので。
片桐は彼に向かい、少し失礼しますと断って、練習場の隅の誰も居ない所に連れて行き、濡れたタオルと渇いたタオルで自分の背中を拭いて呉れた。
彼の相変わらず冷たい指先が自分を冷やして呉れる様に思えた。誰も見ていない事を確かめてから、少しはさっぱりした体で彼の身体を抱き締め、口付けを交わした。五分もそうしていただろうか。お互いの呼吸を奪い合い、唇と舌で魂の溶け合う接吻をした。
「ところであの英吉利人は誰なのだ」
「分からない。こちらが自己紹介をしても名前しか名乗って呉れない。それ以外は色々話すのだが…オレだけでなく林氏や、美鈴とも…。これから、剣道とフェニシングの折衷の練習をすると話の流れで言ったら私も見学したいとの事だ。別に構わないだろう。もし晃彦の気が散るようなら断るが。ただ、あの顔…どこかで見た事が有るような…」
片桐も不審そうな顔をして居る。
「別に練習は見せても構わない」
頓着無く言うと片桐は、安心した顔を見せるとつま先立って口付けを一つ呉れた。その様子からはウイリアムと約束を既にしていたのかも知れないと思った。そこまで目くじらを立てる程の事ではない。特等・二等船客立ち入り自由の場所で練習をして居るのだから。
夕食を終えたら片桐との練習が始まる。
彼とではどちらが強いのか、真剣に立ち会いたく思った。本来ならば竹刀を使いたかったのだが。
数十分の休憩の後、片桐が物珍しそうにフェニシング用の剣を手に取った。
「随分、軽い物なのだな。それに良く撓る」
両手で確かめている。
「竹刀とは全く違う…。これでは晃彦も勝手が違って難しかっただろう」
「ああ、最初はどうしようかと思った…」
正直に言うと、片桐は神妙そうに頷いた。
――自分のせいで――と彼が思わない内に強いて快活に言った。
「倫敦に行けば、学生も体育の単位に含まれるそうだから…今の内に練習しておくのも悪く無いと思う」
「そうだな…」
そう言って、チラリと練習場の片隅で見守っている英吉利人に視線を流す。
「晃彦は、あの人に見覚えがないのだな」
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