57 / 82
第57話(蜜月編)
「先程も言った通りだ。全く覚えは無い」
英吉利人で知り合いはそうそう居ない。日本で教えて貰っていた家庭教師と、この船で顔見知りになった人間くらいだ。それは片桐も同じだろう。いや、片桐の方が日本の社交界に出て居なかった分、余計に世界は狭い筈だ。社交界では外国人は尊重される。
「顔だけは、どこかで見た覚えがあるのだが…」
そう呟いてから、気持ちを切り替える様に頭を一振りすると、剣を構えた。
「フェニシングは初めてだからお手柔らかに」
彼はそう言って見よう見真似で剣を構えた。
彼の姿勢は独特で、林氏とも美鈴とも異なって居た。上半身は直線的な剣道の構えだが、腰から下、特に足の構えが違って居る。腰も良く言えば柔軟な構え、悪く言えば落ち着きのない構えだった。
「その構えは、剣道には無いな…」
そう指摘すると、彼は無邪気に笑った。
「今の剣道には無い構えだ。柳生家の剣道の初期に使われていたものだと師匠に聞いた事が有る。弱法師の構えという千年も前から伝わっていたものだそうだ。師匠はそういう昔の構えを教えて呉れた。これをフェニシングに応用出来ないかをずっと考えて居た。昔の剣法に詳しい師匠に師事して良かったと今は思う。晃彦に教える事が出来るのだから」
剣道も奥が深いと沁み沁み思った。
「まずは剣道の正式な構えで行ってみよう」
ウイリアムに聞こえるように片桐は行った。謎の英吉利人は興味深そうに見詰めている。
剣は異なっても基本は同じだ。少し剣が軽く、そして剣先が撓うと思えば良い。
片桐も、先程の構えではなく全体を直立して立ち会って来る。彼の剣先は流石に鋭いものだったが、辛うじて受け流すと、肩先に突きを入れた。勿論、剣先にはガードが付いているので危険ではない。
「流石だな」
汗を袖で拭いながら片桐が言った。自分は美鈴の特訓のお陰か顔には汗をかいて居なかった。
「では、師匠から教わった構えを見せる。多分こちらは晃彦の予想を超えるものだから、心して見て欲しい」
そう言って先程の姿勢に戻った。こちらは変幻自在に突きが来る。林親子の指南とはまた違った方向から剣先が飛び出して来た。三回に一回は突きが入った。避けるので精一杯なのだ。
――矢張り、足の構えが違うのだな――
そう思って、彼の身体のしなやかな動きを視界で捉え、次は何処に突きが来るかを剣先ではなく全身を凝視する事に拠って捕捉しようとした。この辺りの事はフェニシングと似ている。
片桐の突きが入らなくなる頃、ふと時計を見れば、10時を過ぎていた。
「もう、こんな時間だ。そろそろお開きにしよう」
そう声を掛けると、片桐も我に返った表情を浮かべる。
今までは、片桐の構えに集中していて気づかなかったが、練習場にはウイリアムが居た。
「まだ、いらっしゃったのですか」
ともだちにシェアしよう!