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第60話(蜜月編)
流石にそれ以上の囁きは返せなかった。
片桐は嬉しそうに笑い頷いた。
二人でこっそり笑い合っていると、ダイニングで顔見知りになっていた英吉利人の男性から声を掛けられた。
「お早う。オブライエンとフェニシングの勝負をするそうだな。楽しみにして居る。場所は特等の運動場所だろう」
「どうしてそれを」
噂に成って居るとは思わなかった。
「オブライエンから聞いた。我々は皆、楽しみにして居る。些か航海にも飽きて来たところだ。良い暇つぶしになる。立場上応援は出来ないが…ベストを尽くせ。幸運を祈って居る。ついでに賭けも楽しむ積りだ」
英吉利人とは思えない陽気な青年だった。冗談の好きな亜米利加人の様にも思えるが、「立場上」と言ったからには英吉利人に間違いは無さそうだ。
今まで黙って聞いていた片桐が静かに口を挟んだ。
「掛けは、日本人も参加出来るのですか」
「勿論、ただ、賭けている人間は少ないがね…」
「では、英吉利人の間でだけその噂は広まっていると…」
「その通りだ。日本語を話せる人間が我々の中には殆ど居ないからな」
自分達は特等の社交場にあまり参加して居ないが、日本人の中には日本語しか出来ない人の方が多い。特等の社交場では特にその傾向が強かった。自分達は特等の客室に居て、英吉利に着いたら二等や三等に宿泊させている自分達の書生に通訳をさせる積りの日本人が多い事は初日のディナーで分かって居た。
必然的に日本人は日本人同士で固まり、外国人は外国人で固まるのだろう。
自分に賭けないのも尤もだと思った。フェニシングの試合なら英吉利人が有利なのは自明である。別に腹を立てる様な事では無い。特等に居る外国人は為替レートの関係も有って、日本人よりも有利な立場で乗船出来る。特等の日本人は華族か政商や豪商の社長だけだが、西洋列強の人間は、もっと下のランクの人間も多数存在するだろう事は想像に難くない。
「では、彼に掛けるとすれば大穴ですか」
その辺りの事情も片桐は分かって居る筈だ。
「勿論その通りだ。ただ、これから日本人にも宣伝はするが…」
飽く迄も賭けを楽しむ積りらしい。
「誰が取り仕切っているのですか」
片桐がこういう下世話な事に口を挟むのは珍しいので、黙って聞いて居る事にした。
「実は俺が取り仕切っている」
「では、私は彼に賭けます。500ポンドでどうでしょうか」
静かな口調ながらも決意を感じさせる声で片桐は言った。
「500ポンドも良いのかい。流石に日本の貴族の子弟は気前が良いな。それ程お金の使い道が無いのかい」
冗談の様に肩を竦める。
「いえ、彼を信じているからです。お金はいつお支払すれば良いですか」
凛とした表情で片桐が言った。
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