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第61話(蜜月編)
そこまで信頼されているのかと思うと一層身が引き締まる思いがした。大体彼は無駄遣いなどしない性格だ。500ポンドも有れば、イギリスで中流階級の家族が一ヶ月の間余裕を持って生活出来る金額だとか聞いている。
「締め切りは今夜だ。それまでに俺の客室か、社交場に持参すれば良い」
「分かりました。では、夕食が始まる頃に社交場に持って参ります」
彼と分かれて、二等に続く通路の鍵を開けて居る時に、つい言って仕舞った。
「そこまでして呉れるのは嬉しいが、俺が負けたらオブライエンの言う事も聞く約束だし、その上、お金の無駄遣いだぞ」
片桐は真率な眼差しで自分の顔を見詰め、一言だけ呟いた。全ての想いを吐露するかの様に。
「オレは晃彦を信じているから」
その真剣な表情に自然と背筋が伸びた。
彼の期待を裏切らない為にも、絶対勝たねばならないと何度目かの決意をした。
林親子の待っている練習場に行き、指南を受ける。その合間に片桐が姿を消している事に気付いた。
彼は本当に賭けにも参加する積りだと直感した。
ウイリアム氏も相変わらず練習を見に来て呉れて居る。
片桐が彼の顔を知っていると匂わした事が気にかかったが、そんな事に構っている暇は無い。試合の日まで練習有るのみだった。
少し、休憩していると、ウイリアム氏が近寄って来た。
「試合の場所は決まったのかね」
「はい、特等の運動場です」
「そうか…、その時は君も驚くだろうな…」
謎めいた言葉に聞き返す暇も無く、美鈴が練習を再開しようとしていた。
今は練習だけを考えるべきだと思い返して、練習に没頭した。
何としても勝つために。
いよいよ、オブライエンとの決闘の日の朝が来た。
目が覚めると、横に片桐の寝顔が有った。起こさないように気を付けて、こめかみに口付けを落とした。が、彼はまどろんで居ただけだったらしく接吻に気付いて睫毛をゆっくり開けた。
「お早う」
何時もの穏やかな笑みだった。
自分の事を信頼して呉れているのか、不安や危惧の表情は浮かんで居ない。
上半身を起こし、手を握り合って口付けを交わす。衝動のまま激しく成る接吻は口で交合している様な錯覚を覚える。
接吻の激しさを物語るかの様に、名残惜しげに唇が離された後、片桐の唇の色が紅くなって居た。
手を握ったまま、彼は昨日見聞きした事を話して呉れた。
試合は、夕食後、特等の運動室で行われるとの事だった。それから特等の日本人にもこの噂は広まり、本命はオブライエンで有る事、ただ、日本人は自分を応援してくれて掛けた人間もかなり居る事等を教えて呉れた。
当事者は自分なのに詳しい事をオブライエンから知らせて来ないのは、矢張り日本人蔑視の感情が彼の中にあるのだろうな…と推測される。我が日本も列強諸国の中には入ってはいるが、唯一の東洋人の国であり歓迎されて居ない事は分かっていたので。そうそう腹も立たない。
目標は片桐の為に勝つだけの事なのだから。
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