63 / 82
第63話(蜜月編)
「エドワード侯爵…だ。と言っても、隠居して今の当主はご子息が侯爵を名乗っていらっしゃるが」
「あの、貴族院議員でもある…」
そんな興奮気味の声が途切れ途切れに聞こえる。
「しかし、この船にお乗りになられていたとは知らなかった」
「ああ、特等ではお見かけした事は無い。是非お近づきに…」
その場に居た英吉利人は皆、侯爵の下に挨拶に行った。
片桐が、やっと分かったという顔をして居る。
「英国の雑誌に載っていたのだ、写真入りで…だから見覚えが有った」
日本に居た時、片桐は英吉利の事に自分よりも興味を持って居た。だから雑誌にも目を通していたに違いない。自分ときたら、会話と文法を習っていただけなのに…。
すると、大勢の英吉利人の取り巻きを連れて、ウイリアム氏、いや、元侯爵は近付いて来た。
「今まで素性を隠していて済まなかった」
侯爵はまず謝罪した。謝罪の必要など感じなかったが。人それぞれに事情があるに違いないのだから。
「貴方の様な御身分の方がどうして二等船客に…雑誌で時々お写真を拝見しておりました」
片桐が不審そうに聞く。自分も同感だった。英吉利の貴族の中でも五本の指に入る由緒と財力と権力の持ち主だ。この船が日本船籍ではなく、英吉利船籍…例えは悪いが名高いタイタニック号・・・のような船であれば自分達よりも豪華な部屋に、名前を告げるだけで予約出来るだろうに。
「隠居した今となっては、却って体面と取り繕う必要が無くなった。だから適当に名前を端折ってわが国が植民地としている国や、同盟国などを実際の目で見たかった。
庶民の暮らしや国の違い、それからこの世界はどうなって行くのかなどを・・・な。特等船室では、その国の抱えている問題など分かろう筈も無い。そうかと言って、三等では会話が下品過ぎる。
だから有り余る時間を使って、色々な旅をしているのだ。今回は、昔取った杵柄でフェニシングの手ほどきをした。
多分、トラップにさえ惑乱しなければ、勝てる相手だと思う。オブライエンが名手とは聞いて居ないからな」
「有り難うございます」
一礼して居ると、回りの声も自然と耳に入る。
「賭けをしているのですが、一口如何ですか」
「今からでも遅くないのかね」
「侯爵様でしたら大丈夫で御座います」
「では、彼に1000ポンド掛ける」
鶴の一声にざわめきが走る。隣に居た片桐も大きな瞳を更に丸くしていた。
そう言って、ポケットからペンと小切手帳を取り出し、無造作に金額と名前を書いて、元締めに渡した。
「侯爵は往年のフィニッシングの名手だ。その方が日本人に賭けるとなると…早まったか」
英語で、皆驚きの声を上げて居る。
その時、扉が開きオブライエンが入って来た。自分と同じように動きやすい服を着て剣を持って居る。その剣は使い込まれた形跡が無く、誰かから借りてきたとしても碌に練習はしていない事が分かる。
自分の剣は自分がこの練習の間、林氏から借りてずっと練習に使ってきたものだった。左の方が良く撓る事も知って居る。
剣だけ見れば自分が有利の様に思えたが…。
オブライエンはまず、片桐を見て侯爵に気付いたようだった。驚愕の表情をして居る。
ともだちにシェアしよう!