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第65話(蜜月編)

 その時、彼が左に重点を置いた。今までよりも体重が掛かって居る事も分かった。 ――今だ――  そう思って、左からの突きを受け流すのと同時に鋭い突きを入れた。その時、彼の目は汗が流れ込んだのか、閉じられて居た。  突きは見事に心臓の真下に入った。  英語と日本語のどよめきが聞こえる。  オブライエンの手から剣が落ちた。 「勝負あり」  ウイリアム氏が宣言した。  片桐の方を見ると、彼は瞳を輝かせ満面の笑みを浮かべて拍手して呉れていた。  オブライエンに視線を戻すと、彼は顔を紅潮させていた。恐らくは屈辱感と怒りの為に。 「この試合は無効だ!目に汗が入った時にたまたま突きが入った。卑怯者のする事だ。矢張り日本人は油断がならない!日本もどさくさに紛れて植民地を増やしている。同じやり方だ」  などと大声で叫んでいた。  自分は片桐にさえ被害が及ばなければそれで良いので、オブライエンとウイリアム前侯爵に一礼して去ろうとした。勝負は決着したのだから。  その時、厳粛で威厳に満ちたウイリアム氏が発言した。 「我が祖国や騎士道を軽んじる言説は許し難い。ミスター加藤は正々堂々と勝利を収めた。気付かないのか、彼の背中は汗で衣服が濡れておる。顔だけの発汗を止めるような鍛錬を重ねて来たに違いない。汗を止めるのはなまなかの練習量ではあるまい。  日本の剣道でも、額に汗止めをする事は見てきた。だから油断に乗じたわけでは決して無い。貴方がもし、顔の汗が止められないと自覚していたなら、この様な略式の試合だ。 工夫すれば良い物を…その懈怠の心を忘れて逆上するのは英吉利人の騎士道を侮辱する事になる。しかもこの勝負の行方だけで、日本の政治を論じるなど笑止千万な振る舞いだとは思わないのか」  口調は穏やかだったが烈火の響きが背後に隠されているかの様だった。  オブライエンは顔色を失い、青くなっていた。 「はい…ウイリアム侯爵の仰せの通りです」  震える声で言った。ウイリアム前侯爵に睨まれるという事は英吉利上流階級からの追放すら有りえる。 「では、今後はミスター加藤との約定を果たす様に。それだけはしかと申し付ける」  そういえば、ウイリアム前侯爵には全てをご存知だ。流石に二人の関係は言ってはいないが… 「ははっ。決して違えません」   平身低頭し、倉皇と彼はその場を立ち去った。 「見事な試合だった。これだけの日数で良く此処まで腕を上げたな。見学も楽しかった上に、ミスター片桐との会話も示唆に富んでいて有意義だった。早速船員に聞いてみて特等に空きがあるなら船室を移ることにしよう」  そう言って握手を求めて来た。 「恐縮です。それに先程は有り難う御座いました。卿の万金の御言葉が無ければ、どうなっていたか…」  手を恭しく握り、感謝の意を表す。

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