66 / 82
第66話(蜜月編)
「いや、英吉利人として当たり前の事をしたまでだ」
そう言って試合場を後にしようとした。その背中にもう一度お辞儀をしてから片桐を探す。彼は賭けの元締めの英国人とやり取りをしていた。――もう賭け金を貰う積りなのだろうか――彼はそれ程お金には執着しない人間だったので不思議だった。
英吉利人と日本人が祝福の言葉を掛けてくる。その中を早足で通り抜け片桐の背中を軽く叩いた。彼は財布を仕舞い――かなり分厚くなっていた――、微笑みを浮かべた。
その笑いは、あたかも天使に微笑んだかの如く感じられた。
「おめでとう」
言葉は短かったが、心の底から湧き上がる感情に耐えている様な口振りだった。肩に置かれた手が――以前散々体験した様な嫌な震えではなく――少し震えて居る。
此処に居ると、皆が集まって来そうな雰囲気なので早々に退散する事にした。
疲労を理由に船室に戻る事を皆に告げる。日本語と英語で。
肩に置かれた手はそのままにして、廊下を歩いた。これ位は構わないだろう。多分、この試合の顛末は殆どの特等船室客に伝わっているに違い無いのだから。
「片桐の御蔭で勝てた」
「いや、オレは殆ど貢献していない。林親子の特訓の賜物が一番だったと思う」
「練習量で言えばそうだが、練習をずっとお前が見ていてくれたから…ここまで頑張れたと思う」
素直な心情の吐露に相応しい低い声で告げる。
「…そうか…。それは良かった」
そう言って片桐はくすぐったそうに微笑していた。
「いつか、剣道で手合わせをお願いしたいと思っていた」
「オレは数年していないし、今の体力では晃彦に負けると思うが…」
真剣な眼差しで言った。
それはどうだろうかと心の中で思う。
「まぁ、フェニシングはどうせ向こうに行ってもする事になるかも知れない。お前も覚えておく方がいいかもな。何なら教えるが」
片桐は顔を輝かせて言った。
「まぁ、今回は略式だったので、基本からルールまで二人してじっくり林親子に指南願うか」
しかし、そこまで甘えて良いものだろうか…とも思う。元々は美鈴が迷子になり、それを見つけたのが御礼にと指南を請うたのだから。
「正式に教えて貰うとするとやはりお金が要るな」
「それなら心配ない。実は林親子に御礼をする積りで晃彦に賭けたお金を貰って来たから」
――ああ、それで片桐はあんなに早く賭けの主催者の所に行ったのだな――
「で、幾らになった」
話の流れでそういう話になった。別に金額に興味は無い。元々、片桐が大金を出して入る事は知っていた。自分へ賭けた人間もそう多く無いだろう。日本人は賭けてくれたかも知れないが、如何せんポンドと円ではレートが違う。ポンドを持っている英吉利人が圧倒的に有利だ。
ともだちにシェアしよう!