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第68話(蜜月編)
確かに書き物机の上に、お握りとまだ暖かい味噌汁が用意されていた。
お握りは5個有ったが、味噌汁は一椀だけだった。そして、二人分の日本茶と1人分の大振りのグラスが用意されていた。
「有り難う。お前は食べないのか」
そう聞いて見た。
「オレは…夕食を食べたから…」
そう言っているが、元々食の細い彼の事だ。試合の事で食事が喉を通らなかった可能性が高い。
「一緒に食べよう」
そう誘ってみると、彼は黙って頷いた。
お握りを食べた。二等船客用の食事を食べて居た時も、お握りは有ったが二等と特等では使っている御米が違っていることが分かる。其れに何より空腹だった。更に重要な事は傍に彼が居てくれるだけで食事は美味に感じられたものだが、特に今夜は天上の美味に勝ると思った。
片桐もお握りを食べて居る。案じた通り、あまり食べていなかったのだろう。とても美味しそうに食べて居る。箸の進み方が何時もよりも早い。
味噌汁は一椀しか無かったので、自分が箸を付けて、半分程飲んだところで、御椀を彼に押しやった。
「俺はもう良いからお前が飲んだらどうだ」
「有り難う。そうさせて貰う…ついでに御箸もこちらへ」
自分用の箸が用意されているのに、変な事を言い出すな…と思ったが、箸ごと彼に御椀を渡した。
彼は自分が使っていたお箸をこちらに作法通りに差し出すと、味噌汁を飲んだ。
今まで彼が使用していたお箸には彼の唾液が付いている筈だ。彼の一部分が付いて居る物で食事をすると尚更美味に感じられた。
片桐もそれを分かって居て、お箸の交換を申し出たに違いない。
もう数え切れない位彼の事を惚れ直していたが、その記録が今夜でもう一つ更新されたのを感じた。
空腹が満たされた時に以前から気になっていた事を尋ねてみた。
「もし、俺がオブライエンに負けたらどうする積りだったのだ」
幸せそうに、味噌汁を飲んで居た片桐が真っ直ぐで澄んだ瞳で言う。
「晃彦を信じて居たから…」
「しかし、勝負は時の運も有る。それに剣道なら兎も角、フェニシングでは向こうの方が慣れて居る。明らかに俺の方が不利だったのは確かだ」
彼の瞳の色が真剣さを孕んだ。
「オレは、晃彦以外とそういう関係には成れないし、成りたくも無い。万が一そういう事態が起こったら、潔く死を選ぶ積りだった」
やはり危惧は当った。自分がもし負けていれば、片桐は今頃自害して居るところかも知れない。しかも、自分のせいで…そうなれば二重の懊悩に苛まれる。一つ目は、自分の為に片桐を永久に失ってしまったという絶望感であり、二つ目は、この世の中で一番大切な人間を失ってしまったという虚無感だ。
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