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第80話(ロンドン編)

「早速部屋に帰って、読んでみよう」  そういう彼の顔は嬉しそうだった。  部屋は、暖炉のある中々大きいものだ。日本の屋敷の自室よりは小さいが、その方が片桐と密着していられる。デスクが二つとベッドが二つ、箪笥はなく、壁の窪み――クローゼットと言うらしい――に衣類などを収納する。本棚が壁面びっしりと並んでいる一画もある。部屋の中央には、自分が蚤の市で見つけた布団の無いコタツのようなテーブルが置いてある。この机は自分のデスクよりも大きいので、部屋で食事をする時や、主に晃彦が勉強する時、そして二人で読み物をする時などに使っていた。  そのテーブルに片桐は手紙を区分して居る。 「これはオレ宛…こっちは晃彦」  その様子が妙に可愛く見えて、立ったまま彼の顔を眺めて居た。  不意に片桐が頬を膨らませてこちらを見た。しかし、頬を膨らませたのは一瞬で感心したような顔をする。 「晃彦宛の方が断然多い。皆に慕われているのだな。絢子様も柳原嬢も皆お前宛だ…」 ――そんな筈はないだろう――という言葉を飲み込む。彼女達は片桐との恋のライバルだったのだから。 「あ、華子まで、オレだけじゃなく晃彦に手紙を…」  兄の威厳を傷つけられたように呟く。 「三條も両方に手紙を呉れている」  三條はこれまでの経緯を全て知って居る。両方に宛てて一通の封書にしなかったのは、片桐の妹の華子嬢との結婚が決まったので義兄になる片桐を慮ったものだろうか。  区分けが終った様子なので対面して座る。私信をみだりに読まないというのは自分達が育った華族階級のエチケットだ。  気に成った絢子様――彼女もそろそろ宮家に嫁ぐ日が近いはずだ――と柳原伯爵令嬢の手紙を先に開ける。  一読して、自分宛てにした理由が分かった。二人とも異口同音のように「そちらは夏目先生が神経衰弱に罹られた場所…片桐様がそうならないようにくれぐれもお願い致しますわ」という文章だった。どうやら――以前の話だが――自分達の関係が家族の知るところとなり片桐が以前神経衰弱に罹ったことがあった。その前歴と、夏目先生の著作で倫敦=神経衰弱という図式が完成されているらしい。その事を心配して、自分に釘を刺す為に手紙をしたためたらしい。  三條は、帝国大学での愚痴「もしも、お前と片桐が居たら俺がここまで勉学に苦労することはなかったのに…」から始まっていた。彼らしいユーモア(もしかしたら本音も混じっているかもしれないが)や、華子嬢とは清らかな交際ながらも上手く行っていること、そして最後に「未来の義兄様を神経衰弱に罹らせたら絶交だ」で結んであった。結局は自分達の仲を気遣った文面だな…と思った。  華子嬢も「兄の事をどうか宜しくお願いいたします。東京の屋敷では、父上の容態も快方に向かい、母も元気ですのでこちらの事はご心配なさらずに勉学に励まれますことを晃彦様の口からも兄にお伝えください」との事だった。  家族からの手紙には東京の事や親戚のことなどが書いてあっただけなので読み飛ばし、ふと目を上げると、片桐の綺麗に澄んだ瞳がこちらを見詰めている。

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