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一、虎が雨(とらがあめ) 二

「もうすぐ炊き込みご飯ができます。お味噌汁は小分けにして火は使わずに電子レンジで温めて下さい。フライパンは隠しましたので、くれぐれも火を使わないようにお願い致します」 「大丈夫ですって。もうホットケーキで天井を焦がしたりしません」 「お願いですから、筆以上の重いモノは持たずに過ごしてください。お風呂掃除も泡がついたままで脱衣所に戻りますと、滑ります故に」  橋本さんは水曜の今日から、次の書道教室がある土曜までの三日間だけ、甥っ子の結婚式に沖縄に帰省する。  日曜には戻って家の状態をチェックすると言われたけれど、三日離れるだけで過保護すぎる。  確かに、フライパンでホットケーキを発火させて天井までキャンプファイヤーしたり、着物のままお風呂掃除して裾を踏みつけお湯に飛び込んだり、雑草を抜こうとして持っていた桑で壁を割ったりした。  けれど書道以外、何もできないまま30歳を迎えてしまうのは、大人として如何なものか。 「その顔は、分かってませんね。それでは甥っ子の結婚式は欠席を」 「わーわー。約束します。筆より重いモノは持ちません!」  子供の様な情けない約束をとりつけて、何とか橋本さんに納得してもらえた。  仕方がない。実際に筆以外のものを触ると、橋本さんが大変なんだから。  自分にそう言い聞かせると子供たちが慰めてくれた。 「……あ、雨だ」  ぽつぽつと雨が降り出すと、子供たちと橋本さんは荷物を纏めて飛び出していく。  分かってはいるけれど、一人になるのは少し寂しい。  皆に手を振るのと、隣の家のトラックが発車するのはほぼ一緒だった。  隣の家も荷運びを雨が降る前になんとか終わらせたらしい。  豪華な洋風の家だから、数メートルしか離れていないのに遠くに感じられた。 「挨拶に来るかもしれないから、お煎餅でも用意しとこうかな」  丁度皆が帰って人恋しくなった俺は、いそいそとおせんべいの準備に家へと戻った。  とうとうザーっと大きく雨が屋根を打ち出した。  それと同時に炊飯器が炊けた合図を鳴らす。小分けされたお椀を電子レンジに入れて一分。  橋本さんが作ってくれる炊き込みご飯は、甘くて鶏肉も柔らかく美味しいし、もう本当に最高だ。  おせんべいとお茶の準備も万端だから、隣の人が挨拶に来ても大丈夫なんだけど、この雨では来ないかもしれない。  縁側の屋根に一部、雨漏りがするのでバケツを置いて、そのコツンコツンと落ちる音を聞きながら、溜息が零れる。子供に書道を教えるのは楽しいけれど、微々たる月謝でカツカツの中、一体いつまで俺は兄の借金を返していかなけらばいけないんだろう。  橋本さんだって定年越えて、沖縄の甥っ子さんとか自分の孫とかの時間も取りたいだろうしなあ。 「すいません」  玄関から声がした。――きっと隣の人だ。  勢いよく立ちあがったために、縁側のバケツを蹴飛ばしてしまった。 「こ、こんばんは。凄い雨ですねえ」  脛を摩りながらへらへら喋りつつ玄関へ向かうと、擦りガラスの扉の向こうに大きな影が見えた。  大柄な男の人みたいだ。横にスライドさせると、黒の大きな傘を持った男の人が俺を見下ろしていた。 「本当です。こんなに降るとは思ってもみなかったです。氷雨さん」 「え、あ……俺の名前」  傘を閉じ、玄関に一歩踏みは行った男の人は無愛想で冷たそうな人だった。黒のスーツに黒のネクタイ、おまけに煙草の匂いを撒き散らしている。  水で溶かした墨のように艶やかな黒髪。顔は、切れ長の瞳にスッとした鼻筋で男の俺から見ても整っていると思う。すらりとした手足に短くカットした髪。ヤクザみたいな風貌だけどよくみれば一つ一つのパートが整っていて美しい。  俺は筋肉とか付かない体質でもやしみたいな身体だから、次に生まれ変われるならこんながっしりした男らしい身体に生まれたい。 「久しぶりなのに、全く変わってないんですね、氷雨」  ぼーっと見とれてたら、そんな言葉を冷たくぶつけられた。 「お隣に引っ越してきた人――ですよね?」  俺の名前を知ってるなんて。でも自分にはこんな強面の知り合いなんて居ない。  首を傾げる俺に、彼は意地悪そうに唇の端を上げて笑うと、長い手を伸ばしてきた。  その手が、俺の顎を掴むと左右に振られ、値踏みされているお刺身のような扱いを受ける。 「俺の事を忘れてるなんて酷いじゃないですか。俺は忘れたことなんてないのに」 「ひっ 誰、知らないっです」  思わず突き飛ばし、靴べらを持って威嚇する。すると彼の手に持っている紙袋を見て、思わず武器である靴べらを落としてしまった。 「それは老舗和菓子店『惷月堂』の紙袋!」 「そうだよ。氷雨が好きなどら焼きと、引っ越しの挨拶に紅白まんじゅうだ」  引っ越しに紅白まんじゅうだなんて聞いたことが無かったけれど、俺がリビングに用意していたスーパーで売っているお煎餅とは比べられないほど高級な和菓子だ。  でも俺の好物まで知っているなんてこの人は何者だろうか。

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