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一、虎が雨(とらがあめ)三

「貴方は、誰ですか?」  紙袋を渡されて素直に受け取りながらも、ちょっとだけ不気味で怖い。ヤクザみたいな雰囲気だし、人をお刺身みたいに品定めしてきたし。まさか借金をなかなか返さない俺を、依頼されてどっか人身オークションにでも売るために来たとか!? 「怖がらなくていい。俺の名前は、『桜花 樹雨(さくらはな きさめ)』だ」 「え」  その名前にさーっと血の気が引く。この人、意地悪な笑顔を顔に張り付けて、俺の怯える様子を楽しそうに観察している?  そんな鋭い目に、俺が紙袋を押し返した。 「もう十年も前の話で俺をからかうつもりならお引き取り下さい。それは死んだ兄の名前です」 「氷雨」 「帰ってください!」 惷月堂のどら焼きには後ろ髪を引かれる思いだったけれど――この怖い人を追っ払う方が先だ。 「今度来たら警察呼びます!」  靴べらを振り回しながらそう言うと、彼は不敵に笑ってみせた。 「ここら辺の警察なんて、俺の顔見しりだ。全く怖くねえよ」 「ひい」  警察も逃げ出すような悪者。そんな人から高級な和菓子を頂くわけにはいかない。 「お土産も持って帰ってくださ、い」  ちょっとだけ名残惜しくて語尾が小さくなったけれど、再び靴べらを振り回して追い払った。  どうしよう。お隣さんが怖い。  急いで鍵をかけてからリビングへ戻った。すると電子レンジから煙が上がっている。  どうやら一分温めるはずが、10分もお味噌汁を温めてしまったらしい。  ぐつぐつとマグマのように踊っているお味噌汁が、なんだか怖くて電子レンジから取り出すのは止めた。  そのまま炊き込みご飯を二杯だけ食べて、保温にするとさっさとお風呂へ入る。  どうしよう。  橋本さんに言った方がいいのかな?  でもせっかくの休日を邪魔しちゃ悪いよね。  隣に――ヤクザまがいの大男が引っ越してきたぐらいで俺は驚きすぎ、だよね?  そう言いつつも、今日は電気を消して寝ることが出来なかった。 ***  雨が落ちていく音が一晩中響いた。  そんな中、俺は中学生の時の夢を見た。  母が病気で急死し、父の手伝いを頼まれて俺は入っていた茶道部を辞めた。  元々和菓子目当てだったので、後ろ髪を引かれる思いだったけれど、父と橋本さんだけでは雑用まで行き届かないらしくて俺が手伝うことになった。  兄は自由奔放で、中性的で綺麗な容姿のためにいつもクラスの中心に居るような人。  バスケ部で部長をしていたので、部活を辞めるつもりはないと言われた。  そもそもあの人は、書道に興味も無かった。  学校から帰って慌ただしく、家事も炊事も何もできなかった俺は、自然に指導する側へ回っていった。  初めて一緒に指導して学んだ小学生たちは、皆可愛かったのだけは覚えている。 「……夢なんて見ちゃった」  早朝6時前。早く寝過ぎたせいで、中学時代の夢なんて見てしまった。  こんなに早く起きても、筆より重いモノを持つことを禁じられている俺は何もすることがない。  そう思い、雨で濡れた庭を眺めながら縁側を歩きトイレへ向かった。  その時、バリバリバリと木が割れる音と共に俺の視界は大きく揺れた。 「え」  目線が下がっている。いきなり足元が何もなくなった。 それが床が抜けて足が落ちたのだと気付くのに数秒かかった。  俺が昨日、ヤクザに驚きバケツをひっくり返したのを忘れてたんだ。 一晩中雨漏りして、老朽化していた床は腐って落ちてしまったってこと?  どうしよう。足が抜けない。  両足落ちてしまい、袖が折れた廊下の木片に引っ掛かり上手く動けない。  どうしよう。橋本さんが来てくれる日曜まで落ちたまま?  なんとか手に力を込めて上へ足をあげようとして床がまたピキピキと崩れた。 「――今の音なんだよ」  あっ  ガラガラと窓が開く音と共に、昨日のガラの悪い人の声がしてきた。  助けをお願いしようか躊躇っていると、さらに床が裂けて小さく『ひっ』と声を漏らしてしまった。 「氷雨さん?」  呼び捨てではなく、俺の名前を氷雨さんと彼は呼んだ。  兄は呼び捨てだったのに。 「あの、ヤクザさん、その、」  言い出しにくかったけれど、恥を忍んで声を出した。 「手を貸して頂けないでしょうか」  壁の向こうの彼は黙ってしまった。

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