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一、虎が雨(とらがあめ)四

「あ、いや、いいです。誰か人を呼んで頂けますか。貴方の家以外は知り合いばかりなので、その」 「今行くから待ってろ」  次の瞬間、ある場所からひょいっと彼の顔が現れた。 「なんで」 「氷雨さん。大丈夫ですかっ」  彼は、俺の家の崩れている壁から庭へ入ってきた。  外からは花を置いて隠している場所を、迷いもせずに其処から入ってきた。 「床が老朽化してて、その」 「分かったから、俺の腕に掴まって」  こんな朝早くからスーツを着ていた彼は、ジャケットを脱ぐと袖をめくり逞しい腕を差し出してくれた。  ソレに手を置くと、周りの木片をはらってくれて、ようやく両手の身動きが取れた。 「ありがとうございます。助かりました」 「いや。ってか動かないでください、怪我をしているかもしれない」  彼は簡単に俺を抱き抱えると、迷わずに居間の方へ向かった。そしてそのまま押し入れを開けて救急セットを取り出す。  なんで、救急セットがそこにあるって知ってたのだろう。驚いている俺の横に座ると、着物の裾を持ち上げようとしてきた。 「だ、大丈夫です。怪我なんてしてないです」 「黙って。すぐ終わるから」  足に大きな手が触れる。 「――っ」  そのまま大きな手が太ももの方へ上がっていくと、着物もめくれ上がってくる。必死で太もも付近までは手で押さえたけれど、人様に足を見られるなんて。しかも触れられるなんて、――恥ずかしい。 「ほら、擦りむいてる。混乱している人は傷に気付けない場合が多いんだよ」 「うそ」  足は足首から膝まで十センチ近く赤く擦られている。傷を見て初めて、じんじんと痛みが生まれ出した。 「消毒して軟膏塗って毎日包帯取り替えたらいいから」 「消毒してなんこう……包帯……」  書道以外不器用だと自分でも自覚している。 「こんなに手厚くしなくても大丈夫です。放っておいたら治りますから」  着物の袖を戻そうとすると、急に視界がぐらっと変わり天井が目の前に見えた。 「黙ってって言ったろ?」  見下ろしてくる男の目の冷たさに、身体がすくむ。押し倒されたようだ。  声が出せなくてこわばる俺を見て、彼の長い手が着物の合わせに伸びる。 「他にどこか怪我してないか調べてもいい?」  人差し指からゆっくり合わせに侵入してきて肩まで脱がされる。  彼の目が怖いと感じたのは、俺の白くて頼りない肩を見て、静かに高揚しているのが分かったからだ。  反対側も脱がされそうになりぎゅっと目を閉じて顔を背けた。  怖い。怖いのに身体が動かない。せめて彼の視線からは耐えたい。 「氷雨さん、震えてる?」  着物に伸びていた手が止まった。俺の震える肩に気付いたのか、近づいていた顔が離れていく。 「調べるだけだから怖がらないでください」  その言葉は、先ほどよりも鋭くなく柔らかな優しい口調だった。 「いやで、す」  声に出したつもりが、ひゅうひゅうと掠れた声だけになる。けれど聞き取れたのか、彼は俺の上から退くと、救急箱から消毒液を取り出した。ひんやりした消毒液をつけられる瞬間、顔を袖で覆い隠してぎゅっと唇を噛みしめる。  染みて痛いとかばれるのが格好悪いから、耐える。 「その、脅すつもりはなかったっていうか、その」  口ごもりはっきり言わないけれど、彼の顔を見る勇気はなかった。 「綺麗な身体をこんなに傷つけて、びっくりした気持ちをぶつけてしまったっていうか」  軟膏を指で伸ばして塗る感触が、なんだかすごくイケナイ事をされている気がして顔の前で手をクロスすると必死で耐えた。彼の人差し指が俺の肌を滑っていく。 「なんかやっぱり喋ってください」  包帯を巻きながら彼がそう言うので、袖で顔を隠したまままだ身体は震えていたけれど声を絞り出した。 「ありがとうございました」  パタンと救急箱が閉められてようやく息を一回吸った。 「怖がらせてすいません。そんなにビビらないで下さいよ」  上半身を起こし、着物の乱れた部分を手で手繰り寄せた。  それを見ていた彼は、髪を掻きながらもう一度聞いてくる。 「怖がらないで」  その言葉にじわりと涙が浮かぶ。

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