7 / 71

一、虎が雨(とらがあめ)六

 久しく食べていなかった惷月堂に心を奪われた自分と決別して、男をしっかり見据える。 「何一つ、真実を喋らない貴方を俺は何一つ信用しない。出て行って下さい」 「氷雨さん」 「手当はありがとうございました。ですが、俺は今、ひっそり穏やかに暮らしています。兄の名を使って嫌がらせするのであれば、二度と話しかけないでください」  言いながらヒートアップしてしまい、血圧が上がったのか足の痛みがズキズキと大きくなった。 「まだ色々言えないことが多くて、それは謝罪します。昔から言葉を選ばないこの性格も。でも、――貴方が嘘をつけない素直な人だから騙してるだけで、事件が解決すれば全部話すから」  背けた俺の顔を、今度は両手で挟む込むように自分の方へ向けた。逃がさない。  そんな声が聞こえてきそうな瞳で俺を捉える。 「だからそんな可愛い顔で誘わないでよ」  さっきの愁傷な顔は何処へやら。したり顔で笑ってる。 「帰れって言ってるのに、誘ってなんていません!」  前言撤回はしなくてよかった。変だ。このお隣さん  それに俺からは朝食に誘っていない。自分からサンドイッチを掲げて来た癖に。 「氷雨さんって料理できます? なんか繊細な料理とかできそう」 「申し訳ありませんがすぐに引き取りください」 「手料理で何が得意ですか?」 「帰ってください。俺の得意な料理をそんなに知りたかったら教えてあげますよ」  キッチンへ行き、戸棚から塩の袋を取り出す。 「俺の得意料理は、嫌な客へ塩を捲くことです!」  勢いよく投げつけると、彼は右腕で顔を庇う。  けれど、俺を見てちょっとだけ悲しい顔をしたように見えた。  どうせ、中性的な顔で、女みたいで、こんな職業で、独身で――だから料理ぐらいできるって思ったんだろう。 「とっとと帰ってくださいっ」  もう一度塩を捲くと、無言で立ちあがった。 「命の恩人にそんな態度ねえ」  肩に落ちた塩を落としながら近づいてくる。立ち上がった彼は、大きくて簡単に俺を影に隠してしまう。  怖くて後ずさると、座布団に引っ掛かり扱けてしまった。 「来ないでください」 「助けた報酬は?」 「え、あの、お金は持ってないですって」  どうしよう。朝食持ってきたりして、もしかして家の金目の物を物色したかったの?  惷月堂の高級どら焼きが買えるくらい金銭面に余裕があるくせに、俺にお金を要求するのか。 「そんな怯えないでって言ったのに。まあいいや、報酬貰っておきますね」 「へ、あ、―‐んっ」  一瞬、影が近づいてよく状況が飲み込めないうちに、彼は俺の顎を持ち上げて唇を奪った。 (えっ、え――っ)  この状況を理解した瞬間、温かい舌が口の中でうごめくのが分かった。 これって、――キス?  生まれて初めてのキスが、兄の名を名乗る男。  呆然としている俺に追い打ちをかけるように深くなるキス。  思わず、持っていた塩を直接そのまま頭に振り落とした。 「いって」 「こんな! どういうつもりですか」  ごしごしと唇を拭く。すると対照的に彼は唇を舐めて、感触を味わっている様子だった。 「どういうって、――ねえ。わからないですか?」 「わ、分かりません。こんな、相手の了解も取らないで、ましてや恋人でもないのに、――子供でもこんなことしませんよ」  大声で言うと、彼は『子供』という言葉にぴくりと反応した。 「君みたいな子供っぽい嫌がらせをする人なんて、近所付き合いは金輪際お断りです!」  胸が痛んだけれど、――惷月堂の菓子折も投げつけて、頭が真っ白になったようなふ抜け面の彼を玄関から追いだした。 「しかたねえじゃん」  ガンっと玄関の柱を叩くと、俺を睨んだ。 殴られるのかと身構えると、彼は小さく舌打ちをして無言で去って行った。 廊下に散らばる塩と、惷月堂の菓子折りを拾う気にもなれずにそのまま俺は布団へUターンした。 嵐のように彼は俺の感情を掻きまわし、一言も自分の事は話さないで去っていく。 ――もう来ないで欲しい。 それは本音だ。 眠ろうと意識すれば蘇るのは、荒々しく翻弄してくる熱い唇の感触だった。

ともだちにシェアしよう!