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三、私雨 二
Side:桜雨 氷雨
ゆらゆらと蠢く。
まるで水槽の中の金魚の尾のように、水中の中を優雅にのんびりと蠢く。
「ひさめ、なまえが上手くかけねえよ!」
「イタッ」
お手本を墨で書いていたら、終わった瞬間後ろから叩かれた。
「ああ、小筆の糊を全部取ってしまったんですね」
「んだよ。糊って」
「筆は糊で固めているんですよ。自分の力に合わせて糊を水で落とすんです。ゆらゆらって慎重に」
引き出しから新品の小筆を取ると、筆を洗うように用意してあった小さな瓶に入った水の中へ先だけ入れる。
そしてゆらゆらと糊を落としていく。
「おれ、のりを全部落としてたのか」
「ついでに力が強すぎて、筆の先を潰してたんでしょうね」
「ひさめの筆より、俺の筆のほうが安っぽいからだろ」
「上手くなりたいなら良い筆を使うのも大切ですが、君の場合は元気がありすぎるし、集中力をつけてから、ですね」
クスクスと笑うと、その男の子はムスッと怒ったように口を結んだ。
「ひさめって、俺の名前呼ばないけど、覚えてるの?」
「――っ」
痛いところを突かれて、筆を下ろしていた手を止めてしまった。俺は、あまり人の名前を覚えるのが上手くない。
橋本さんの下の名前だってたまに間違えてしまっていたぐらい。
要領が悪いというか、注意力散漫というか、困った。
子供たちも皆、下を向いて練習をしているから顔を覗くわけにもいかず名前と一致していない。
「答えろよ」
「えっと、じゃあ一番最初に君の名前を覚えます。教えてください」
「っ。ばっかじゃねーの!」
ダンっとテーブルに置いていた硯を払いのけられた。硯の砥ぎ石が畳に黒い染みを作っていく。
「お前なんかセンセに向いてねーよ! 男女!」
「え、あ、待って!」
立ち上がろうとして、自分の着物の裾を踏んで転んでしまった。顔を上げると、その子の姿はなく、代わりに畳に墨が広がっている痕しか残っていなかった。
ゆらゆらと、水中を泳ぐ金魚の尾のような過去。
ぱちりと目を開け、俺は二回転がると、そのままその畳の痕があるはずの部分に手を伸ばす。
――痕が無くなっている?
え、――あれは今、俺が見た夢?
一瞬わけが分からなくなって、自分の頭を押さえた。いや、暫くあの墨の痕は残っていた。
自分が悪かったのだからと、自分で雑巾で消した。けれど綺麗に消えなくて、しみになって残っていた。
それが今見たら無くなっていた。新しい畳に変えたんだっけ?
記憶を辿るけれど、あの頃は部活を辞めて自分だけ我慢しているような、心のどこかで精神的に負荷が多かったので曖昧な部分が多いんだ。
「でも、夢じゃないよ」
俺はあの男の子を傷つけてしまったから、だから書道教室のあとに皆でおやつを食べる時間を設けた。
練習中は顔を見て上げれないから、終わってから皆と話しながら顔と名前を覚えようって。
――その戒めに、墨が染みついた畳を大切にしていたのに、いつの間に消えて忘れてしまっていたんだろう。
「おはよーございます!」
……来た。居留守を使おうと無視していたら、ガサガサと音がなる。
「一龍のコロッケとおにぎりを朝ご飯にお持ちしました!」
「一龍!」
なんで彼は、俺の好きなものをピンポイントで持ってくるんだ。駅前のお肉屋さんのお惣菜だ。高くはないが、並ぶんだ。平均一時間は並ぶってテレビでも話題になっていた。
ただのお肉ではなく、肉じゃが用の甘辛く味付けされたじゃがいもと牛の挽肉が甘くておいしいんだ。
けれどほしいなんていわない。無視して冷蔵庫からお味噌汁を一杯だけ注いで電子レンジを開けると、――中に二日放置されたお味噌汁が入っていて、息を飲んだ。
忘れていた。
「わ、ひっで。やっぱり居るじゃないっすか」
「入ってきちゃったんですね」
迷惑だと遠まわしに言ってみても、橋本さんから命を受けたという後ろ盾があるせいか、彼の笑顔はキラキラ輝いている。
「墨を溶いたり、テーブル並べたり、あと、なんか書道終わったら皆でおやつ食べるんでしたっけ?」
テーブルに袋から取り出した餃子やおにぎりを出しながら、俺に確認してくる。
「そう。今日のおやつは何か決めてなかった」
お茶碗を持ってウロウロしていたけど、電子レンジのものを見つかるのは嫌だったので冷蔵庫に戻し、席に座った。
「俺の時はおやつタイムとかなかったのに。あ、どうぞ」
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